機種名 | Canon Canon PowerShot SX720 HS |
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ISO | 80 |
F値 | 3.5 |
ホワイトバランス | オート |
シャッタースピード | |
レンズ焦点距離 | 4.3 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/1250 |
画像方向 | 水平(標準) |
日本最古の城攻め絵図
『辺春和仁仕寄陣取図(へばるわにしよりじんとりず)』田中城は、戦国末期に隆盛を誇った肥後国衆(くにしゅう)の一人、和仁(わに)氏の居城であり、和仁城・和仁古城などともよばれている。天正十五年(一五八七)一旦は豊臣秀吉に服属した国衆たちは、秀吉から肥後一国を与えられた佐々成政(さっさなりまさ)の強引な支配に反抗して、同年七月から実力で抗争をはじめた。いわゆる肥後国衆一揆(いっき)である。
田中城は、一揆の最後の拠点のひとつで、秀吉方の一万の大軍に対し和仁氏と親族の辺春(へばる)氏の兵約九百人が二ヶ月余りもたてこもり抗戦の末ついに落城したと伝えられている。この戦いの様子は、従来あまり明らかでなかったが、最近になって山口県立文書館の毛利家文庫(もうりけぶんこ)のなかから当時の城攻めの絵図が発見された。絵図の中央には、棚や深い堀をめぐらした上に、やぐらを立てた防御厳重な田中城の姿が、西側から見たように描かれ、和仁氏・辺春氏の陣も区別されている。その周囲には、二重の柵が立てまわされ、四方の丘の上などに陣を取った攻撃軍の諸将の名と、城からの距離も記入されている。小早川秀包(こばやかわひでかね)(毛利元就の末子で、小早川隆景の養子)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)・鍋島直茂(なべしまなおしげ)・立花宗茂(たちばなむねしげ)などの秀吉側の大名の名がわかる。また図には二ヶ所の『仕寄(しより)』(攻め口)が描かれ、攻撃の主方向が示されている。秀吉得意の兵糧(ひょうろう)攻めと直接攻撃を併用する作戦と見える。
この絵図には、さらに『軍中法度(ぐんちゅうはっと)』(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、この種の絵図としては日本最古というべきまことに貴重な史料である。今もよく残る田中城の跡とくらべてみるとき、興趣はいよいよ深まることであろう。平成五年三月吉日
東京大学名誉教授 石井 進む
東
南 立花(たちばな) 左近(さこん)
西 安国寺(あんこくじ) 秀包(ひでかね)
北 鍋島(なべしま)一、諸陣大廻(しょじんおおまわり)五十町 一、城(しろ)ト陣(じん)トノ間三、四、五町
一、仕寄(しより)四口 藝州衆(げいしゅうしゅう)一口 肥前衆(ひぜんしゅう)一口 立花(たちばな)一口 筑紫(ちくし)一口軍中法度(ぐんちゅうはっと)
一、喧嘩停止之事(けんかていしのこと) 一、押買停止之事(おしがいていしのこと)
一、懸引者安国秀包(かけひきはあんこくひでかね)可被任申分事
付普請同前之事
以上
北側から本丸にある駐車場に直接登れますが、城を楽しむなら南西側の麓にある「ふれあい広場」の駐車場から歩いて攻城する事をオススメします。
伝・弾正屋敷跡にて
伝・弾正屋敷の上くらいの場所で振り返って撮影。
ここまでの登城道はコンクリート道ですので草は大丈夫ですがここからは草が伸び放題でした。
南側の出丸付近にあります。
南側の出丸です。
草が
ボーリング調査をしていました。
このあたりは草刈がされていました。
主郭にて
主郭です。
畝状竪堀のようにも見えます。
ここは草が一段と酷く通路も見分けられない状態でした。
ここは草が一段と酷く通路も見分けられない状態でした。
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