河村城の麓に設置されています。
河村館跡(かわむらやかたあと)
河村館跡は山城(やまじろ)である河村城の根小屋(ねごや)(普段生活する場所)だと考えられます。
河村館跡と称される遺跡の範囲は酒匂川(さかわがわ)河岸段丘上の岸・湯坂(ゆさか)地区一帯に広がり、江戸時代の絵図には、「秀清(ひできよ)屋敷」「土佐(とさ)屋敷」「内記(ないき)屋敷」などの記載があります。
これまで、部分的に発掘調査が行われ、東西二五〇m、南北一五〇mに及ぶ居館(きょかん)を方形に囲むと想定される溝が見つかりました。また、区画の内部からは建物跡なども見つかりました。出土遺物から室町時代後半、十五世紀から十六世紀頃の跡だと考えられています。
平安時代後期、平将門(たいらのまさかど)の乱鎮圧に功績のあった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を祖とし、秦野地方を支配していた、波多野遠義(はたのとおよし)の次男、秀高(ひでたか)が当時の山北の地名であった「河村郷(かわむらごう)」から名前をとり、「河村秀高」と名乗ったことが、河村氏の始まりだと言われています。
秀高(ひでたか)の子、義秀(よしひで)は石橋山(いしばしやま)の合戦で平氏側につき、勝利しましたが、その後、平氏が源氏に敗れたため、河村氏は領地を没収されました。しかし、一一九〇(建久(けんきゅう)元)年、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝(みなもとのよりとも)の前で流鏑馬(やぶさめ)を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鑑(あずまかがみ)』に記されています。
一三三三(元弘(げんこう)三)年、足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉幕府に反すると、河村氏は新田義貞(にったよしさだ)に従い、倒幕に加わりました。翌一三三四(建武(けんむ)元)年、後醍醐(ごだいご)天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏らの北朝方と新田義興(にったよしおき)らの南朝方の争いが激しくなる中、一三五二(正平七)年、新田義興、脇屋義治(わきやよしはる)の軍勢が、河村氏の勧めにより河村城に籠城(ろうじょう)しますが、翌一三五三(正平八)年には、河村城から退去したことが『太平記(たいへいき)』に記されています。
山北町教育委員会
奥が駐車場で10台ほど駐めれます、手前の建物はトイレです。
スロープ状の通路が設置されています。
城址東側の大庭郭付近に設置されています。
北側には城址碑が設置されています。
河村城の麓に設置されています。
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10月の定期ライブで榎本先生が推薦され、かつ来年の大河ドラマが平安時代が舞台と言うことで、予習のつもりで手に取りました。はっきり言って平安時代に関する知識はあまり有りませんでしたが、この著書には桓武天皇が都を平安京に移してから、摂関政治、院政、そして武士の時代までの約400年の貴族の権力闘争や平安京に住む人びとの営みを知る事が出来ました。特に関心を持ったのは平安京のトイレ事情で、汚い話もあり詳細は割愛しますが、テレビや映画ではなかなかお目にかかれない事なので興味深く読ませて頂きました。来年の大河まで時間はそう有りませんが、その前に是非読んでおく一冊だと思います。
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