張子の虎の反対側の高いところにあり分かりづらい。
山頂の「⑥空鉢護法堂」が本丸になります。
城の遺構ではありませんが
朝護孫子寺側のルートはかつての搦手だったそうです。
朝護孫子寺にて
張子の虎の反対側の高いところにあり分かりづらい。
朝護孫子寺にて 信貴山で聖徳太子が物部氏を討つにあたって先勝祈願をしたそうです。
ぜんぜん中腹ですが眺望はいいです。 (山頂からはこちらの方角は見れなかったと思います)
ここから石段による本格的な山登りになっていきます。
登山道から
南東側のつづら折れの先が朝護孫子寺。 雄嶽が山頂で本丸。 北側に三本分かれている尾根の真ん中が松永屋敷で整備されています。 松永屋敷の西隣の尾根の先端には少しだけ石垣遺構がありますが道などはあまり整備されていません。 また西尾根沿いの道を進むと高安城(大阪側)へ向かうことができます。
雌岳分岐点にある案内図です。 (”てにをは”がおかしいところがありますがそのまま書き起こししました。)
雌岳分岐から。
雌岳曲輪の南端には薄っすら土塁や石積みによる虎口跡が残っています。
蜂の仕業なのか信の文字の一部が埋められてしまっていました。
山頂にまさかの軽トラ。(空鉢護法堂の管理人の方のでしょう) 松永屋敷方面から作業道がここまで通じていました。(と言っても荒れていますし、勾配がすごいです)
天守があったとされる本丸には空鉢護法堂が建っています。
奈良と大阪を隔てる生駒の山並みです。 奥の高い山は金剛山だと思います。
本丸には空鉢護法堂があり、社や灯篭が所狭しと建っています。
本丸跡は社や灯篭が所狭しと並んでいてごちゃごちゃしています。
本丸に沢山奉納されている鳥居の一つに信長とお市の名前が 本当はどなたが奉納したのか知りませんが、結構お金をかけたサプライズですね。
一段上から撮影。 信貴山城は木々の伐採はされていないので写真はだいたいこんな感じに。
左側、立入屋敷跡を横切り道なりに西へ進むと高安城へたどり着きます。 松永屋敷へはどちらからも行くことが可能です。
高い切岸で隔たれた曲輪が続いているのですが、木々のせいで写真では分かり難いですね。
信貴山城の曲輪は名前があまりついてないのでややこしいタイトルです。 尾根先端の曲輪に石垣がある曲輪群に下りるところなのですが、正面の曲輪の先は堀切(切通2)で下りれない事はないですが、安全第一で迂回する事にしました。 縄張図的には写真の切通1を左に回り込めば行けそうな気がしますが倒木で塞がれています。 切通を右側に行けば松永屋敷に通じているのですが、降りてすぐの帯曲輪を進み、切通2を通って行くことで先に進むことができました。(ただしこの後も高い切岸などで楽には石垣までたどり着けませんでした。) ちなみにこの切通には石積を伴う二つの窪みがありましたが用途不明
見事な切岸です。信貴山城は切岸で防衛された城でした。
松永屋敷にて
曲輪の真ん中に土橋状の坂虎口があります。
松永屋敷跡は北側の先端から腰曲輪に下りて東側の帯曲輪を通て戻れます。
南東側のつづら折れの先が朝護孫子寺。 雄嶽が山頂で本丸。 北側に三本分かれている尾根の真ん中が松永屋敷で整備されています。 松永屋敷の西隣の尾根の先端には少しだけ石垣遺構がありますが道などはあまり整備されていません。 また西尾根沿いの道を進むと高安城(大阪側)へ向かうことができます。
高安城側への虎口です。
信貴山城と高安山(高安城)、弁財天の瀧との分岐点にある標柱です。
信貴山城のところだけ抜粋 文字は見にくいですが結構詳しいです。
ここから城域です。
自分は切通を通り迂回しましたが、よく見ると切岸に通った跡が。
パンフレットで「連続する土塁」と矢印がついている曲輪です。
パンフレットで「連続する土塁」と矢印がついている曲輪の先端東側の土塁です。
パンフレットに「連続する土塁」の矢印がある曲輪の切岸を下段から撮影。 この切岸を迂回する方法が浮かばす右端から直に下りました。
パンフレットに記載のある「石垣」です。 結構苦労して尾根伝いに降りてきましたが、地図を見るともうすぐ下に田畑が広がっているみたいですね。
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