〜水軍の将 九鬼嘉隆〜
Admiral Yoshitaka Kuki
鳥羽城は九鬼水軍として活躍した九鬼嘉隆により、文禄3(1594)年に築城されました。九鬼氏は南北朝の動乱以降、志摩地方に勢力を伸ばし、戦国期には嘉隆が織田信長に仕えるようになります。嘉隆は、織田信長が天下統一を目指す過程で、苦心していた長島の一向一揆や、石山本願寺との戦いにおいて水軍を率いて数々の戦功を挙げました。
なかでも、天正6年の大阪湾での第2次木津川口の戦いで、当時としては異例の大型の鉄甲船6隻を率いて毛利水軍を打ち破り、石山本願寺の攻略に大きく貢献し、その功績により伊勢・志摩国のうち3万5千石を賜りました。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、日本丸という大型軍船を建造し、文禄元(1592)年の朝鮮出兵の際にも日本丸を中心とした大船団を率いて参陣しました。
九鬼家のその後
嘉隆は、家督を子、守隆(もりたか)に譲り隠居しますが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、嘉隆は石田三成側に西軍、守隆は徳川家康側の東軍に属し父子で戦をしました。西軍の敗北後、嘉隆は、答志島へ逃れました。守隆の決死の助命願いにより許されたのも知らず、答志島の洞泉庵にて切腹しました。現在、答志島には嘉隆の首塚、胴塚があります。
その後、守隆は戦功により5万5千石となるが、守隆が没すると、久隆(ひさたか)と隆季(たかすえ)で家督争いが起こり、幕府の裁定により、久隆は摂津国の三田(兵庫県三田市)、隆季は丹波国綾部(京都府綾部市)へ国替えが命じられ、九鬼家は二分され、鳥羽の地を去ることになりました。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する