新府城は武田宗家の居城として設計されているだけあり、とにかく本丸の面積がやたら大きいです。おそらくは対面所を含む表方、当主及び家族の居住空間である裏方、これらの建物がこの本丸に設けられる予定だったのでしょう。
西は絶壁、東も急斜面の台地。背後を水堀として、南方の尾根筋に大手を取っています。敵が織田と徳川である以上、南と西の防御を強化する縄張りです。
新府城は武田宗家の居城として設計されているだけあり、とにかく本丸の面積がやたら大きいです。おそらくは対面所を含む表方、当主及び家族の居住空間である裏方、これらの建物がこの本丸に設けられる予定だったのでしょう。 西は絶壁、東も急斜面の台地。背後を水堀として、南方の尾根筋に大手を取っています。敵が織田と徳川である以上、南と西の防御を強化する縄張りです。
新府城大手門前にある丸馬出前の空堀。新府城最前線の防御線です。右側の馬出切岸が険しくて厳しい。
三日月堀越しに丸馬出を見上げる。完全な土の壁。上から鉄砲やら矢やらを打ちかけられたら近づけない。
巨大な丸馬出ですが、普段は新府城の表玄関です。武田家居城の表玄関ですから、丸馬出の虎口に続く道には石が敷かれていたようですね。わずかに石畳が顔をのぞかせています。
大手虎口は土塁で桝形を囲み、食い違いに虎口を開けて直進できないようになっています。武田系城郭に多いと言われる桝形虎口で、松代城(海津城)の本丸虎口もこの形です。
非常に広い三の丸跡。写真は西の三の丸であり、奥の土塁の向こうに同じ広さの東の三の丸が有る。家臣の居住所なのか官庁街なのか。
搦め手に位置するこの門は位置から乾の門と呼ばれています。大手の門と同じ食い違い桝形虎口です。 内側の虎口では礎石及び木材の焼けた跡などが見つかっており、薬医門あるいは櫓門が有ったと推定されるとのことです。
虎口前の土橋。手前は惣構えの水堀。奥は七里岩の絶壁。城の北側はグルっと広い水堀と湿地帯に囲まれていて、この狭い土橋しか城への入口がない。
新府城の惣構えに突き出す出構。鉄砲陣地とも言われているが、用途は不明。
西の出構とともに惣構えの低湿地帯に突き出している。鉄砲陣地とも水堀のダムとも言われているが、用途不明。
城本体と東側の尾根を切り離す水堀跡。水量調整用のダム代わりの土塁が残っています。
新府城東側の水堀跡のうち土塁の下側の堀は首洗い池と呼ばれていたそうです。 別にここで武田勝頼が討たれた訳でもなく、そもそも合戦が有ったわけでも無いのですが、この名前が残っています。
巨大な新府城大手の丸馬出。その周囲には土塁が作られています。
大手虎口の横矢を入れる位置にある櫓台の跡。眼下に桝形と丸馬出を望め、横から攻撃ができる絶好の位置にある。 ここに望楼を設ければ、はるか南方、東方の眺望も効く。
二の丸の虎口前にある馬出郭。三の丸と二の丸の間にある武者だまりのような場所です。周囲は土塁に囲まれています。 地形の制約なのか、武田流の丸馬出し形状にはなっていません。
本丸の一段下にある二の丸。周囲は土塁に囲まれている。ここは台所郭?あるいは人質の居住場所?
ただただ広い、新府城本丸。武田勝頼が居住し、徳川家康が本陣を置いた場所です。
縄張り図では植込の記載がある場所ですが、区画されている二の丸も一部の様です。一段下が二の丸です。
本丸西側にある巨大な井戸の跡。天水溜まりなのか、底から水が湧いているのかは不明。とにかく巨大な穴。
左は深く掘られた空堀。右側は七里岩の絶壁。搦め手の虎口を突破してもこの土橋で一列縦隊にさせられて、正面攻撃を受けてしまう。
惣構えの水堀越しに対岸の城域を見る。山側へ広い空堀が掘られていて右側の搦め手虎口のある郭と城本体を切り離しています。いわば乾の門の有る虎口は馬出のような小さな郭として独立しているわけです。
新府城の北側を守る惣構えです。 2本の出構えを突き出しているこの場所は低湿地帯であり、さらに城際は深く掘りこんで水堀としていたことが判っています。
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