津山線の高架を潜ります。
宇喜多直家に攻められ落城した時はこの曲輪を内応者に占拠され落城したそうです。
この土塁の下に「天主の井戸」があります。
この土塁の下に天主の井戸があります。
この土塁の下に天主の井戸があります。
この城の目玉。直径8m、深さ約10.5mの巨大な井戸です。
この城の目玉。直径8m、深さ約10.5mの巨大な井戸です。
城の南側にあたります。
御津支所側からの登山道になる千鳥坂。 登山口から出丸まで約547mこのような階段状の山道を登ることになります。(当時は登城口付近が通行止めになってました)
玉松城とは金川城の別名です。
千鳥坂登山口は道路から一段上にあるのでこの建物の脇から行くことになります。
三十六人の武将、中身が気になります。
城の麓にある日蓮宗・不受不施派祖山です。不受不施派は江戸時代にはキリスト教のように弾圧を受けていた宗教として有名です。また日蓮宗と金川城は因縁があり金川城主だった松田氏は日蓮宗の熱狂的な信者で城内に日蓮宗の道場である道林寺を建てました。また落城のきっかけも日蓮宗に入れ込みすぎた城主松田元輝、元賢親子とそれを諫言した家臣の伊賀久隆と不仲で、宇喜多直家につけこまれて落城となりました。
城の麓にある日蓮宗・不受不施派祖山です。不受不施派は江戸時代にはキリスト教のように弾圧を受けていた宗教として有名です。また日蓮宗と金川城は因縁があり金川城主だった松田氏は日蓮宗の熱狂的な信者で城内に日蓮宗の道場である道林寺を建てました。また落城のきっかけも日蓮宗に入れ込みすぎた城主松田元輝、元賢親子とそれを諫言した家臣の伊賀久隆と不仲で、宇喜多直家につけこまれて落城となりました。
左の犬走りを進むと城址北端の堀切跡へ 中央の斜面を登っていくと北の丸へ、 右の道を下ると白水の井戸です。
土橋の両脇に堀切。そのまま竪堀になっています。
岡山市御津郷土歴史資料館側の治部ケ谷口になります。
治部ケ谷口の登山口沿いにあります。
こちらにパンフが置いてあります。
道林寺丸に続く登山道。よく整備され登りやすいです。
このあたりから曲輪の平削地が見られるようになります。
本丸と北の丸の間にある井戸です。
本丸と北の丸の間にある井戸です。
北の丸の切岸
尾根左側は土塁の跡なのでしょうか?
土橋の両脇に堀切。そのまま竪堀になっています。
北端の2本の堀切の先には、さらに尾根の両サイドに2本の竪堀が掘ってありました。
北の丸から本丸への尾根は幅が広く曲輪にできそうでしたが平削されておらず自然地形のようでした。
この城の目玉。直径8m、深さ約10.5mの巨大な井戸です。
この城の目玉。直径8m、深さ約10.5mの巨大な井戸です。 縁に石垣が見えます。
堀底に城割りで壊された本丸石垣の石材が転がっています。
二の丸付近にあります。こちらは他の二つとは違い埋もれていました。
二の丸付近にあります。石積が残っています。
二の丸からは岡山城に続く旭川が見えます。
城の南側になります。
出丸からは二の丸まで約120m、本丸まで約280mだそうです。
登城口付近が大雨で荒れてしまったようで立入禁止になっていましたが城側からはわかりませんでした。
岡山池田藩の家老日置忠俊が慶長八年に金川を領有すると城山の東五丁ほどの山麓に移築した神社です。金川城の案内板などがあります。
字が消えかけてよくわからないです。
こちらに車を停めさせていただきました。
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攻城団テレビ「戦国時代のはじまりと終わりはいつか?」の中で団長が紹介されていたので読んでみることにしました。本書では1467年室町幕府に「応仁の乱」という形で押し寄せた前後を戦国時代の始まりとして、江戸幕府を開いた徳川家康が世を去る1616年までの約150年間に付いて、守護大名、守護代、国人などが戦国大名となっていく課程、織田信長の名が世に出てからは、三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)のエピソードが解りやすく書かれています。また北条氏がらみで関東近辺の地侍についての記載があり、東京在住の私としては地域の歴史を知る上での参考になりました。と言うことで、戦国時代を知りたい方の入門編としてお勧めの一冊だと思います。
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