日向国延岡藩内藤家の初代・家長の伯父に当たる忠郷からつながる支流の系統。
高遠内藤家の初代藩主となった清牧は、母が摂津富田林藩主・内藤重頼の妹だったために重頼の養子となり、3万3千石を継いだ。1691年(元禄4年)、信濃国伊那郡・筑摩郡に移され、高遠城主となった。移封に際して幕府の行なった検地により、実高の3割が幕府領とされたため、藩の財政が厳しく、新田開発に努めた。また大坂加番、奏者番などの要職を務めたことも出費の増大につながった。
高遠藩内藤家の江戸下屋敷の近くには新しい宿が造られ、内藤新宿と呼ばれていた。これが現在の新宿である。
同じ系譜からは、3代将軍・家光に取り立てられた内藤忠重も出ている。彼は酒井忠世、酒井忠勝、稲葉正勝とともに家光の治世を支えた人物で、小姓番頭、書院番頭を歴任し、家光つきの年寄として年寄連署奉書への加判も任じられた。このことで家格を高め、志摩国鳥羽藩3万5千石を与えられている。
ただ、鳥羽藩内藤家は忠重の孫の3代・忠勝が、老中奉書を見せてもらえなかったことに腹を立てて丹波国宮津藩主・永井尚長を斬り殺すという事件を起こしてしまい、そのまま取り潰されてしまった。