榊原家は初代・康政の祖父の代から松平家に仕え、「桶狭間の戦い」の後、康政は家康に従うことになる。井伊直政、本多忠勝、酒井忠次とともに「徳川四天王」と称され、数々の戦いで勇名をとどろかせた。家康が関東に入るとともに、上野国館林藩10万石を与えられた。
2代・康勝は若くして没し、家康は榊原家を存続させるために3代・忠次を横須賀藩大須賀家から榊原家に入れて家督を相続させる。大須賀家は松平姓の使用を許された家だったため、忠次も一代限り、松平を名乗ることが許された。1643年(寛永20年)、加増の上、陸奥国白河藩14万石へ転封される。さらに1649年(慶安2年)、播磨国姫路藩15万石へと転封された。
忠次は転封の際、江戸を守るために関東にとどまりたいと訴え、当初はこれを拒んだという。しかし、周囲の説得に折れ、白河藩へ移封後、西国から江戸を守る要所の姫路藩に入っている。忠次は史上稀に見る名君として知られており、4代将軍・家綱のときに出された「新武家諸法度二十力条」では忠次の意見を採用して、主君への殉死が禁じられた。忠次は忠義を重んじていたが、人材に勝るものではないと考えていたのだろう。
榊原家は政倫の代に越後国村上藩へ転封となり、次の政邦の代にふたたび姫路藩に戻っている。この間、榊原家は学問に打ち込み、儒学者らと交流する一方、和歌集を残すなど文化面に力を注いだ跡が見られる。
しかし、政岑の代にこれが裏目に出る。政岑は多芸多才な人物で、三味線や浄瑠璃に堪能だった。それゆえか、遊里に足を運んで遊女の高尾を2千5百両もかけて落籍したり、3千両で江戸の新吉原の遊女を総揚げして姫路に連れ帰ったりと、やりたい放題に振る舞ったのである。
当然、幕府の処罰の対象となり、政岑は蟄居謹慎、榊原家は越後国高田藩に転封されることになった。
高田藩での治世はなかなかうまくいかなかったが、11代・政令が藩政改革に成功し、藩財政を立て直す。質素倹約を唱えて、人材の登用と学問を奨励する一方、新田開発や農業用水の整備、藩が直営する赤倉温泉の開発、郷津湾に港を築くなど、農業や産業にも力を入れた。また、飢饉に備えて義倉も用意した。
政令は50年余りもの間藩政を取り仕切り、榊原家の中興の英主と称賛されたという。
14代・政敬の代、榊原家も幕末を迎える。1866年(慶応2年)の第二次長州征討では、榊原家は井伊家とともに幕府軍の先鋒を務めた。だが、長州の軍勢の前に惨敗を喫し、「徳川四天王」としての忠義と、新政府軍の勢いとの間で板ばさみになってしまう。
最終的に政敬は側近の川上直本の進言を聞き入れ、新政府軍に従軍する道を選んだ。戊辰戦争での功労を評価され、後に1万石を下賜されている。
版籍奉還後、政敬は高田藩知事に任命され、子爵となった。
榊原家は譜代大名の中でも指折りの歴史を誇る家だが、分家は特に出ていない。