上杉氏は藤原氏の流れを汲む勧修寺重房が丹波国何鹿郡上杉を所領として「上杉」を名のるようになったことに始まり、特に室町時代には関東管領として東国で大きな勢力を誇った。しかし戦国時代に入って後北条家に圧迫され、実質的に滅亡した。
これを継承したのが、もともと上杉氏の補佐役として各地で守護代などを務めていた長尾氏の長尾景虎で、出家後の上杉謙信という名前でよく知られている。
その謙信の死後、実子がいなかったためにふたりの養子の間で後継者争いが起き、勝利した景勝が跡を継いだ。彼は豊臣秀吉に臣従し、会津120万石を与えられたが、関ヶ原の戦いで西軍に参加して家康に逆らったことから米沢30万石となり、江戸時代に入っていくことになる。
ところが、所領が4分の1に減ったにもかかわらず家臣の数をほとんど減らさなかったため、慢性的な財政危機に苦しめられることになる。その一方、ごく初期から青苧(カラムシの茎の皮の繊維。衣料が作れる)・紅花・漆蠟などの特産物が開発され、さらにそれを藩が買い取って御用商人を通じて販売する初期専売制を確立し、財源として活用していた。
3代・綱勝が後継者を決めないままにわずか27歳で急死してしまうと、上杉家はお家断絶の窮地に立った。綱勝の姉妹と高家・吉良義央の間に生まれた綱憲が家督相続を許されてどうにか断絶はしないで済んだものの、代わりに所領を15万石に半減されてしまった。
綱憲の父・吉良義央が『忠臣蔵』で有名な「元禄赤穂事件」において、浅野内匠頭との確執と刃傷事件の末に赤穂浪士の討ち入りをうけると、綱憲は父を守るために藩士を派遣しようとしたが家中の反対が強くてかなわなかった。最終的にこの事件が「仇討ちの美談」となったことから、もし関わっていた場合は上杉家にも少なからず悪影響があったことであろう。
この綱憲の時に家督相続に苦労した経験からか、その四男・勝周が1万石を分け与えられる形で米沢新田藩がつくられた。特定の領地や藩庁機構を持たず、家督相続の受け皿として用意された藩である。
米沢藩を立て直して名君と讃えられたのが、「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」という言葉で名高い9代・鷹山(治憲)である。
高鍋藩主・秋月種美の次男であり、綱憲の娘を祖母に持つ彼は、上杉家に養子として入ると様々な改革に着手した。藩政のシステム的な改革を進めるのはもちろんのこと、江戸での生活費を7分の1以下に切り詰め、50人いた奥女中を9人にするなどの徹底的な倹約を行って財政の健全化を目指したのである。
これが功を奏し、鷹山の先代の頃には幕府に領地の返上まで考えたほどの財政状況は大いに改善され、11代・斉定の代には借金を返しきることに成功している。
その斉定の時に冷害による大凶作があったが、鷹山の設置していた備蔵に貯蔵された食料によってひとりの餓死者も出さず、幕府が恩賞を与える、ということもあった。
ただ、改革がすべて順調にいったわけでもなかった。譜代層による強力な反撥もあり、千坂・色部といった謙信の時代以来からの名門を含む七人が改革に反対して「七家騒動」と呼ばれる御家騒動にも発展したが、鷹山はこれに厳正な処罰を与えて対応した。また、改革を推進させた重臣・竹俣当綱を様々な不業績から失脚させることにもなり、鷹山自身もその直後に隠居し、改革はいったん中断している。
しかし、養子の10代・治広を後見する形で改革を再開し、最終的には先述したような大きな効果をあげるに至ったのである。
幕末の動乱期においては、仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の中心的役割を担い、北越戦争において新政府軍と戦った。しかし、ここで劣勢に立たされたことから早期に降伏することとなり、4万石を没収されて明治時代を迎えた。