酒井雅楽頭家の支流で、初代・忠利は酒井雅楽頭家の初代・重忠の弟に当たる。
1601年(慶長6年)、石高が1万石に達し、駿河国田中藩を立藩した。その後、重忠が厩橋藩に転封されたことに合わせて、空いた武蔵国川越藩に1万石を加増の上で転封される。同時に大留守居に任命され、「大坂の陣」では江戸城に残ってこれを守っている。1616年(元和2年)と1619年(元和5年)にはさらに加増され、計3万7千石を与えられた。
2代・忠勝は3代将軍・家光につき従い、武蔵国深谷藩1万石に封じられる。家光が将軍になると2万石が加増され、老中にも任命された。さらに加増と、父・忠利の遺領を受け継いだことで酒井家は川越藩8万石の藩主となった。続けて1634年(寛永11年)、11万3千5百石を得て若狭国小浜藩へと転封される。
忠勝は非常に熱心に幕政を司り、家光からの信頼も厚かった。忠勝が小浜藩に帰ったのは4度だけで、滞在日数は1年にも満たなかったという。1638年(寛永15年)には大老にも任命されている。
忠勝の後、6代・忠音と11代・忠進が老中として輩出されている。
10代・忠貫は領内での教育に力を入れ、1774年(安永3年)には藩校「順造館」を創設した。一方では私塾や寺子屋が多く開かれ、国学者の伴信友や志士の梅田雲浜ら、幕末に活躍する人材を輩出した。
また、『ターヘル・アナトミア』(オランダ語訳された人体の解剖書)を購入し、藩医・杉田玄白らに翻訳をすすめている。後にこれは『解体新書』として発刊された。
幕末になると、13代・忠義が京都所司代として活躍した。公武合体を推し進めた忠義は皇女・和宮の降嫁を実現するために奔走し、そのことで3万石もの加増を受けている。だが、数年後には失脚し、加増の一部も没収される結果となった。
小浜藩酒井家は「鳥羽伏見の戦い」には幕府側として参戦し、敗れて降伏した。
版籍奉還の後、15代・忠禄(13代・忠義が改名してふたたび家督を継いだ)は小浜藩知事に任命される。その後、分家の越前国敦賀藩酒井家と合併して、廃藩置県を迎えることとなった。
14代・忠氏の嫡男である忠道が、後に伯爵位を授けられている。