岩槻藩大岡家は大岡忠相で有名な西大平藩の大岡家とは血縁筋に当たるが、「関ヶ原の戦い」より前から徳川家に仕えていた大岡忠政の子の代から分かれた家系である。
こちらの大岡家も3百石を知行する旗本にすぎなかった。しかし、初代・忠光が異例の出世を遂げる。
忠光は9代将軍・家重の小姓であり、家重が将軍になると御側御用取次(将軍と幕閣の間を取り次ぐ役職)に任命された。
実は、家重は病弱で言葉が不自由だった。しかし、なぜか忠光だけは家重と意思疎通を図ることができたため、家重のそばに置かれたのである。家重の忠光への信頼は非常に厚く、一時たりとも離れないほどだったという。
これによって忠光は加増を受け、1751年(宝暦元年)には上総国勝浦藩1万石に封じられる。続いて若年寄に任命されて5千石、さらに側用人に任命されて5千石を加増され、大岡家は武蔵国岩槻藩2万石の大名となる。
しかし、輝かしい出世を遂げたのは忠光だけで、以降の大岡家からは奏者番に任命される者が現われる程度だった。
戊辰戦争勃発後、進撃してくる新政府軍に対して大岡家はあっさり恭順している。8代・忠貫は当時の藩主で、版籍奉還の後、岩槻藩知事に任命され、後に子爵位を授けられた。