稲葉家は美濃国の斎藤家に仕えた美濃三人衆の1人、稲葉良通(号の一鉄で有名)の血筋である。良通は主君・斎藤龍興に背いて織田信長に内通し、そのまま織田家の主力武将として活躍した。本能寺の変で信長が討たれると、羽柴秀吉のもとに向かい、稲葉家は豊臣方の大名として存続していく。
この血統は良通の次男・貞通が継いで豊後国臼杵藩を治めた。貞通は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでも当初は西軍に参加していたが、時流を読み取って東軍に寝返り、豊後国臼杵藩5万石の外様大名となった。
前置きが長かったが、譜代大名である淀藩稲葉家は良通の長男の娘婿となった正成にはじまる。正成は当初、豊臣方の大名・小早川秀秋の家老を務めていた。「関ヶ原の戦い」では秀秋を説得し、徳川方に裏切らせた功労者でもある。しかし、次第に進言が聞き入れられなくなり、正成は小早川家を去って2代将軍・秀忠に召し抱えられた。そして、関ヶ原の戦いなどでの功績から、美濃国本郷藩1万石に封じられる。
その後、「大坂の陣」でも戦功を上げ、正成は越後国糸魚川藩2万石、さらに下野国真岡藩2万石へと転封された。
2代・正勝のとき、淀藩稲葉家は大きく発展する。正勝の母(つまり、正成の正室)は3代将軍・家光の乳母となって絶大な権力を振るった春日局で、正勝も幼い頃から家光の近くに仕えていた。正勝は小納戸、徒士頭、小姓番頭、書院番頭などを歴任し、家光が将軍になると常陸国柿岡藩1万石に封じられる。その後、さらに1万石を加増され、淀藩稲葉家の家督も相続して、最終的には相模国小田原藩8万5千石を治めるまでになった。
家光の時代には、戦いで手柄を立てて出世することができなくなっていた。そんな中、正勝の例は将軍との個人的なつながりによって出世するという新たな道を明確に示したといえるだろう。
3代・正則は正勝の嫡男で、幼い頃に生母が没したため、祖母の春日局に引き取られて、彼女のもとで育った。長じては将軍の近くで育ったということから大きく取り立てられ、4代将軍・家綱のもとでは老中として活躍している。正則の代に小田原藩は石高11万石という、関東でも屈指の大藩となった。
4代・正往も老中に任命され、越後国高田藩10万3千石、さらに下総国佐倉藩10万2千石へと転封される。5代・正知のときに山城国淀藩10万2千石へと移され、そこに落ち着いた。
淀藩稲葉家は譜代大名の代表的な家として幕府を支え、幕末の混乱期も幕府側の中心となる。16代・正邦は京都所司代となり、京都守護職・松平容保とともに不穏な空気に包まれた京都を取り締まった。1864年(元治元年)には老中にも任命され、倒幕派を弾圧して長門国萩藩の家老の首実検をするなどしている。
しかし、「鳥羽伏見の戦い」では方針を転換し、幕府軍が淀城を拠点とすることを拒否して新政府軍に加わった。このことが幕府軍敗退の大きな要因となったともいわれている。
正邦は江戸幕府最後の老中となり、一時謹慎を命じられたが、大政奉還後は淀藩知事に任命され、後に子爵位を授けられている。