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あんどうけ

安藤家(附家老安藤家)

安藤家(附家老安藤家)の概要

大名種別
いわゆる親藩・譜代・外様の分類
譜代
大名の格
幕府が定めた大名家の格付け
城主
石高
歴代当主が与えられた最高石高
3万8千石
控えの間
江戸城に登城した際に待機する部屋(詰所)
無席
官位(武家官位)
歴代当主が与えられた最高官位
従五位下
爵位
1884年(明治17年)の華族令制定時に与えられた爵位
男爵

安藤家(附家老安藤家)の歴史

安藤家の初代・直次は家康傘下の重鎮であり、小牧・長久手の戦いでは池田恒興、森長可という豊臣方の重臣を立て続けに討ち取るという輝かしい戦果を上げた。
1607年(慶長12年)、家康が秀忠に将軍の位をゆずり、駿府城に移った際にも同行している。そこでは本多正純、成瀬正成とともに大御所側近として国政にかかわった。大坂の陣にも出陣し、家康の十男・頼宣の補佐を務めている。直次は長男・重能を戦死させながらも奮戦して、戦後、安藤家は遠江国掛川藩2万石に封じられた。
1619年(元和5年)、頼宣が紀伊徳川家の当主となると、直次は付家老(御三家の家老)として登用され、紀伊国田辺へ転封となる。このとき、加増を受けて石高は3万8千8百石となった。

以降、安藤家は代々、紀伊国和歌山藩を治める紀伊徳川家の家老職を歴任する。しかし、立場上は和歌山藩主の家臣であったため、安藤家が藩主になることはなかった。
安藤家が藩主となったのは、1868年(明治元年)、16代・直裕の代になってからだった。朝廷から御三家の付家老も藩主に加えるという旨が下され、ようやく田辺藩を治めることとなったのである。
とはいえ、ほどなく幕府は滅亡し、版籍奉還が行なわれて直裕は田辺藩知事に任命される。後を継いだ17代・直行は後に男爵位を授けられ、貴族院議員も務めた。

安藤家(附家老安藤家)の歴代当主

  1. 安藤直次
  2. 安藤直治
  3. 安藤義門
  4. 安藤直清
  5. 安藤直名
  6. 安藤陳武
  7. 安藤陳定
  8. 安藤雄能
  9. 安藤次由
  10. 安藤寛長
  11. 安藤公猷
  12. 安藤道紀
  13. 安藤直與
  14. 安藤直則
  15. 安藤直馨
  16. 安藤直裕
  17. 安藤直行

安藤家(附家老安藤家)の分家

安藤家(附家老安藤家)

安藤家(磐城平安藤家、重信系)

このページに記載してある内容の大半は 榎本事務所に寄稿していただきました。ありがとうございます!
   

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図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟

中の写真、図が多くて「読みやすそう」と手に取りました。家康を生んだ松平氏について、戦国大名徳川家康の苦悩、家康を支えた家族、家臣団についてなど最新の情報で詳しく著されています。大河ドラマの予習としてもいいですが、「ここはこう解釈されたのか」と復習しながらよむのも一興です。今まで定説になっている「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の家康像とは、少し違った家康像が見えてきます。

黒まめさん)

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