相馬氏はその祖先を平安時代後期に関東で大規模な武力反乱を起こした平将門とする名門武家である。名の由来は将門が下総国相馬郡を拠点とし、「相馬小次郎」と称したことにある。
その後、相馬宗家は本領に残り、5千石の旗本として江戸時代に残った。
一方、源頼朝の奥州征伐で陸奥国行方郡を与えられたことを始まりとする奥州相馬家は、東北の有力豪族の一つとして戦国の動乱を戦い、豊臣秀吉に臣従することで4万8千7百石を安堵された。
関ヶ原の戦いにおいて西軍側と目されたことから一時所領没収の憂き目にあったものの、相馬利胤が必死の赦免運動を展開した結果、6万石の大名として江戸時代を迎えた。ちなみに、この利胤はもともと石田三成の「三」の字をもらって「三胤」と名のっていたが、のちに幕府重臣である土井利勝の「利」の字をもらってこの名に変えている。
3代・忠胤の時に、中村藩では「大帳」というものが始まっている。これは収入・支出を始めとする藩のお金の動きを細々としたところまですべて明確に記録するもので、藩財政の基本として後々まで役に立ったという。つまり、今でいう帳簿のようなものだ。
また、彼の治世において新田開発や検地、蔵米制への転換などが行われ、近世的な藩政が整えられた。現在も残る祭り――「野馬追」が始まったのもこの頃だが、その背景には隣に大藩・仙台藩、つまり伊達家がいるために軍備に気を配った中村藩ならではの事情があったともいう。
しかし、時代が進む中で中村藩の経済状況も悪化し、天災や飢饉もしばしば起こった。
中村藩は小藩にしては藩士の数が多く、さらに元禄年間の検地で「9万8千石」と届け出ながら、農村の荒廃や人口減少の影響によって実高が大きく下がっていたせいで、身の丈に合わない御手伝普請を命じられることが多く、藩財政は逼迫した。
これに対し、9代・祥胤の代には間引きの禁止と出生児への養育料負担を打ち出し、人口増加によって問題を解決しようとしたが、大きな効果は得られなかったようだ。
そんな中、財政改善を成功させて名君と讃えられたのが11代・益胤だ。益胤の改革は「文化の御厳法」と呼ばれ、儀式類を本来の6万石相当から1万石相当のものにすることを始めとした厳しい倹約や代々の宝物を売り払っての資金確保、非常時のための米の備蓄、赤子のための養育料の増加、開墾地の税を免除することでの新田開発の奨励などが行われた。結果として天保の飢饉においても一人の餓死者も出さないことに成功した。
また、続く12代・充胤の代には二宮尊徳の報徳仕法が導入され、荒廃した農村の復興と人口・収入の増加が進められた。
戊辰戦争においては早い時期から朝廷への恭順を示していたものの、隣接する仙台藩の圧力によって奥羽越列藩同盟への参加を余儀なくされた。
その後降伏、許されて新政府側に参加し、仙台藩と戦って戦功をあげている。