源平合戦において平氏側で活躍しながら敗れ、壇ノ浦で入水した平知盛の遺児・惟宗判官知宗の末裔とされる。その子が対馬で地頭職を与えられ、武士として活動する際の名前として、惟宗にちなんで宗氏と名乗ったのだという。しかし、このあたりのエピソードは後世の創作のようだ。
以後、宗氏は対馬の地理的条件を活かして朝鮮に対する日本側の窓口となり、日朝貿易で大きな利益を得た。豊臣秀吉の九州征伐後に臣従の姿勢を見せ、対馬の旧領を安堵されて朝鮮との交渉役を務めるも、のちに秀吉が三度にわたる朝鮮出兵を敢行したことから最大の収入源である朝鮮貿易が途絶してしまった。
関ヶ原の戦いでは、時の当主・義智が小西行長の娘を正室に迎えていたことから西軍に与して伏見城攻撃などに参加したものの、幕府から特別な処分を受けることはなかった。
これは朝鮮への窓口という価値を認められたものと思われる。この際、義智は正室と離縁している。
宗家にとって最大の急務は朝鮮との関係正常化であった。秀吉の朝鮮出兵の影響で、朝鮮側は国交再開に難色を示したが、宗家は九年にわたるねばり強い交渉の末にこれを成し遂げた。
この功績から対馬藩(府中藩)は幕府によって10万石格として扱われたが、実際の石高は対馬島のものが1万7千石余り、朝鮮出兵の際に与えられた肥前の1万石余りでしかなく、その身代や役割――代替わりの際にやってくる朝鮮通信使の護衛など、朝鮮との窓口――を担うには大きく不足していた。藩の財政を支えていたのは、鎖国の時代において数少ない「海外との窓口」である対馬藩にだけ認められていた朝鮮貿易による利潤であったが、実際のところはそれでも足らず、文化年間には2万石余りの手当て地が与えられていた。
当初の宗家は「寄り合い所帯のリーダー」で、貿易の利益配分や家臣団との関係という点で支配力が弱かった。しかし、2代・義成の時に朝鮮との外交の実権を掌握していた重臣が外交文書の偽造・改ざんを行っていたことが発覚。この事件を契機として、貿易利益の藩への集中化や兵農分離などの改革が行われた。3代・義真の頃には地方知行から俸禄制への転換も行われ、近世大名的な統治システムもようやく確立したのである。
このような改革と、朝鮮貿易や銀山開発の成功もあって、17世紀後半には対馬藩はおおいに富み栄えることになった。ところが、18世紀になると朝鮮貿易・銀山の双方が衰退を始め、さらにたびたび城下が大火にあったことから、一転して財政危機に見舞われてしまった。
これに対して藩としても倹約や借上などの財政対策を徹底し、さらには幕府からも度重なる補助金や前述したような手当て地を与えられたものの、ついに事態を好転させることはできなかった。
幕末に至って諸外国の船が近海に出没し、対馬藩としても海防の必要性が強く出てきた。
しかし折からの財政窮乏もあり、独力では不可能と判断した一派が幕府へ移封の嘆願書を出した。だがこれは過激な尊王攘夷派の怒りを買い、この件を主導した家老が暗殺され、話も立ち消えになってしまっている。
動乱の時代の中で藩内の対立はさらに過激化し、佐幕派によるクーデターが起きて尊王攘夷派が一掃されるも、これを主導した佐幕派の重臣・勝井五八郎および反発した家老の平田大江達郎の双方が16代・重正によって殺された。この一連の「勝井騒動」後も藩内の意見統一は見られず、そのまま明治維新を迎えることになる。
明治時代にはひきつづき朝鮮との開国交渉(朝鮮通信使は文化年間に途絶していた)にあたったが難航し、最終的にはこうした役目も外務省へ移ることになった。