大村家の血筋は、平安時代後期に海賊として朝廷を悩ませた藤原純友に遡る。その孫が肥前国の彼杵郡大村郷を本拠としたことからこの名を使うようになったという。
以後、鎌倉・室町時代と肥前国に勢力を誇ったが、戦国時代になって支流にあたる有馬家に圧迫されるようになり、有馬晴純の次男・純忠を養子として迎え、存続させることになった。
この純忠は日本初のキリシタン大名であり、イエズス会と密接な関係を持つ中で長崎を開港し、南蛮貿易によって大きな利潤をあげることに成功した。また、一時は龍造寺家の支配下に組み込まれてしまったものの、やがて独立を回復、さらに豊臣秀吉の九州征伐の際には恭順を示し、本領を安堵されている。
跡を継いだ喜前は関ヶ原の戦いで東軍に付き、2万7千9百7十3石の本領を守ることに成功して江戸時代へ入ったが、大村藩は当初から深刻な財政危機に見舞われた。その原因は、膨大な利益を生んだ長崎港が秀吉に取り上げられ、さらに豊臣・徳川の両政権が(その間にある程度の空白時期はあるが)キリシタン禁止令を出したことで海外貿易の可能性を断たれたことにある。このような財政危機に対して、喜前とその子で2代目藩主にあたる純頼は一門衆から領地を没収して直轄地を増やし、財政の健全化と大名権力の増大を成功させた。
ちなみに、喜前と純頼はそれぞれ急死しているのだが、一説によるとその原因はキリス卜教をあっさり捨てたことを恨んだキリシタンによる毒殺だという。
4代・純長の時代にも、キリシタン絡みの大問題が起きている。領内で隠れキリシタンが発見されたのだが、その数が余りにも多すぎて、周辺各所に預けなければならなかった。
その数の多さは大村藩が責任問題を問われかねないほどだったが、純長は実父を通じて速やかに幕府へ謝罪と恭順を示し、また徹底的なキリシタン対策をしたので、幕府による介入と処分は受けずに済んだ。
元禄期になると、大村藩は再び財政危機に襲われる。強力に推進してきた新田開発が限界に達したことと、家臣団が膨張しすぎたことが原因であった。このため、5代・純尹の代には商人たちから5万両余りの借金をせざるを得なくなっている。そのため、藩史の中期から後期にかけては財政の健全化を目指して様々な改革が行われた。
幕末期に当主となった12代・純熈は尊王思想の持ち主だったが、藩内は佐幕派と尊王攘夷派に分かれて対立していた。そんな中、尊王攘夷派の中心人物が暗殺される「小路騒動」が起きると、これによってむしろ尊王攘夷派が活発化し、藩論を手中に収めるとともに藩外活動も盛んに行った。薩長同盟にも大村藩の志士たちが関与していたという。鳥羽・伏見の戦いにも大村藩の新精隊が参加し、さらに戊辰戦争で各地を転戦した。