清和源氏・源頼光の末裔である土岐氏から分かれたというが、このあたりの経緯については諸説あってはっきりしない。浅野長政の頃には織田信長に仕えていたが、彼の妻が羽柴(豊臣)秀吉の妻である高台院の妹であったことから秀吉と親しく、のちに彼の与力となって主に内政面で活躍した。豊臣政権が成立すると長政は五奉行の筆頭となり、さらに奔走している。秀吉死後の動乱の中では、以前から囲碁を通じて親交があった徳川家康に味方し(長政の死後、家康は囲碁を断ったという)、関ヶ原の戦いにも参加。戦後、嫡男・幸長が紀伊国和歌山に37万6千石余りを与えられている。
彼が病没した際には後継者がいなかったが、家康の命によって弟の長晟が跡を継いでいる。その後、広島藩・福島家が改易されたことからその後に入り、安芸国広島藩42万6千石余となった。幕府が福島家の後釜に浅野家を選んだのは、もともと親交が深かったことに加え、長晟が家康の娘である振姫を正室に迎え、さらに縁深くなっていたことが理由だという。
支藩としてはまず3代・長晟の庶長子である長治を祖とする三次藩5万石があるが、これは5代継承したところで11歳の当主・長経が没し、末期養子の16歳制限に引っかかる形で無嗣断絶となった。また、6代・綱長の三男である長賢は蔵米3万石を分け与えられる形で広島新田藩となり、こちらは明治まで続いている。さらに、長政の三男である長重が関ヶ原の戦い後に大名に取り立てられ、下野国真岡、常陸国真壁。笠間藩を経て、息子・長直の代に播磨国赤穂藩に定着した。しかし、4代・長矩(内匠頭)のときにいわゆる「忠臣蔵」の題材になった「元禄赤穂事件」を起こし、改易となっている。
藩政改革はまず7代・吉長の頃に試みられた。この際は藩庁機構の整理と官僚制の強化、商工業に対する統制の強化などを図った。しかし、そのうちの一部である農村に対する支配力の強化については、税がさらに重くなることを嫌った農民たちによる一揆が勃発したので、撤回せざるを得なかった。
一方、改革を成功させて浅野家史上に名高い名君と讃えられたのが、9代・重晟である。彼は自ら率先して徹底的な倹約・緊縮政策を行うことで支出を減らし、また飢饉対策として領内の村々に社倉(備蓄倉庫)を作らせた。彼の治世には天災が相次いで百姓一揆・打ち壊しの起きた時期もあったが、重晟の政策が藩の財政危機にある程度の効果をあげたことは事実である。
幕末期には地理的な事情から幕府の対長州攻撃の前線基地として扱われたが、その一方で幕府と長州の間に立って講和を模索したり、出兵を拒否したりという動きが目立った。
薩長同盟成立後は土佐藩と同じく討幕の密約を結ぶ一方で将軍・徳川慶喜に政権奉還を提案し、大政奉還への道筋をつけている。