山口家は豊前国の大内義弘の末裔であり、周防国山口から尾張国星崎に移って織田信長に仕えた。
初代・重政は信長の嫡男・信忠に仕え、「本能寺の変」以後は信雄に仕えた。その後、家康のもとで上総国に5千石を与えられ、「関ヶ原の戦い」を経て常陸国牛久藩1万2千石となった。ところが、大久保忠隣が失脚した騒動で、嫡男の重信の妻が忠隣の養女だったため、重政も巻き添えを食って牛久藩は改易となる。
1628年(寛永5年)、重政は許されて、ふたたび牛久藩1万5千石を与えられた。
牛久藩では1804年(文化元年)の牛久助郷一揆が知られている。人馬微発の増加に反対した6千人が女化原に集まり、問屋や庄屋宅を次々に打ち壊した騒動だ。この鎮圧に、近隣の土浦藩や佐倉藩からも兵が出されたのである。
戊辰戦争では、牛久藩は新政府軍に積極的に参加し、恭順の意を強く示した。版籍奉還の後、12代・弘達が牛久藩知事に任命され、後に子爵位を授けられた。