森川家は、古くは堀部家を名乗り、織田信秀に仕えていた。堀場氏俊が家康の命を受けて叔父の名跡を継ぎ、森川家になったという。その後、森川家は旗本として徳川家に仕えた。
初代・重俊は2代将軍・秀忠につき従い、下野国に3千石を与えられた。秀忠が将軍職を退いた後、加増を受けて下総国生実藩1万石に封じられる。その後、西の丸老中として秀忠の大御所政治を補佐したが、秀忠が死去すると殉死した。
2代・重政以降、何度か若年寄を輩出したが、老中には誰も任命されず、奏者番や大番頭を務めるにとどまった。
12代・俊方が幕末の動乱を迎えることとなる。新政府軍からの上洛命令に対し、俊方は病気を理由に先延ばししていたが、やがて帰順することを伝えた。
版籍奉還を経て、俊方が生実藩知事に任命され、その養子の恒が子爵位を授けられている。