越後国長岡藩を治めた牧野家とは同じ一族だが、系譜が異なるため、居住した三河国牛久保(牛窪)の地名を冠して区別されている。
初代・信成は2代将軍・秀忠に従って「関ヶ原の戦い」に従軍し、「大坂の陣」にも加わった。とくに「大坂夏の陣」では、大砲を撃ち込んで櫓を破壊するという戦功を上げている。1633年(寛永10年)、武蔵国石戸藩1万1千石を与えられ、その後、下総国関宿藩1万7千石へ転封される。
2代・親成は家督の相続の際に分与などがあり、いくらか石高が下がったが、4代将軍・家綱の側衆から京都所司代へと進み、加増の上、丹後国田辺藩3万5千石へ転封となった。子孫には奏者番や寺社奉行兼任が何人か出ている。
藩政では農民一揆が多発し、溜池を築造したり、殖産を奨励したりとさまざまな施策をしたが、芳しい成果は上がらなかった。
版籍奉還時、紀伊国田辺藩ができたことで、混同を防ぐために舞鶴藩と改称された。11代・弼成が舞鶴藩知事に任命され、のちに子爵位を授けられている。