美濃国高富藩を治めた本庄家の分家に当たる。
本庄宗正の後妻の連れ子・光子が3代将軍・家光の寵愛を受け、側室となって徳松(のちの5代将軍・綱吉)を生んだことで繁栄する。綱吉が将軍となると、光子は桂昌院と称して大奥の実権を握って一族を取り立てた。
初代・宗資は宗正の次男で、綱吉のもとでとんとん拍子に出世し、下野国足利藩1万石を立てた。その後も加増があり、常陸国笠間藩5万石となっている。
2代・資俊以降、本庄家は遠江国浜松藩7万石、三河国吉田藩、ふたたび浜松藩、丹後国宮津藩と転封される。また、遠江国浜松藩の頃には松平姓も与えられた。
桂昌院の威光で本庄家は厚遇され、明治維新まで存続した。ただ、藩政には問題もあり、8代・宗発が発した万人講(病人以外は全員、毎日2文を取り立てるという人頭税)は、その顕著な例で、強訴や打ち壊しを誘発し、藩政を混乱させた。
9代・宗秀は幕末期に老中まで進んだが、討幕派の萩藩士らを独断で釈放したため、罷免されている。
「鳥羽伏見の戦い」の際、宮津藩士が誤って新政府軍に向けて発砲したため、本庄家は朝敵の疑いをかけられた。しかし、10代・宗武がひたすら新政府軍に恭順する意志を示し、どうにか許された。その後、版籍奉還を経て宗武は宮津藩知事に任命され、のちに子爵位を授けられている。