出自には諸説あるが、清和源氏・源頼光の末裔が美濃国池田郡池田荘に居住したのが始まりであるという。
池田家は恒興の頃に台頭し、彼は母・養徳院が織田信長の乳母を務め、乳兄弟として育ったことから側近として厚遇され、信長が倒れた後は羽柴(豊臣)秀吉に味方した。ところが、その恒興が小牧長久手の戦いにおいて嫡男・元助とともに討ち死にしてしまったため、次男の輝政が跡を継ぎ、美濃国岐阜10万石(のちに三河国吉田10万石)の大名として豊臣政権でも重要な位置を占めた。
輝政は秀吉から羽柴・豊臣の姓を許されるなど、本来は親豊臣派の大名であった。しかし、秀吉の死後は家康に接近するようになり、家康の娘・督姫を継室として迎えている。
こうした関係から関ヶ原の戦いでは積極的に徳川家康に味方し、播磨国に52万石を与えられた。しかも備前・美作に入った小早川家が断絶したため、備前28万石が輝政の次男・忠継に与えられた。また三男・忠雄に淡路国六万石、輝政の弟である長吉に因幡国鳥取6万石が与えられたため、合計で92万石を超えた池田氏は「西国将軍」、また輝政の官職から「姫路宰相百万石」などと呼ばれた。
池田家が外様大名であるにもかかわらずこれだけ厚遇されたのは、忠継・忠雄兄弟の母親・督姫が家康の次女――すなわち、忠継・忠雄が家康の外孫にあたる存在であり、輝政が「神君の婿」であったために他ならない。
輝政の死後、嫡男の利隆が所領のうち42万石を継承したものの、それからわずか4年のうちに亡くなってしまう。跡を継いだのは嫡男の光政(母は徳川秀忠の養女)であったが、8歳とまだ幼かったので因幡・伯耆32万石へ移され、鳥取藩主となった。
一方、備前国岡山の忠継は31万5千石余りの所領を有していたが、嫡男・光仲がまだ3歳の時に亡くなってしまう。そこで、この時24歳の青年となっていた光政と所領が入れ替えられた。以後、光政系の血筋が岡山藩・池田家として、光仲系の血筋が鳥取藩・池田家として、それぞれ幕末まで続いていくことになる。
このように複雑な経緯をたどることになってしまったのは、備前・岡山・播磨といった中国地方の付け根にあたる部分が、薩摩の島津家・あるいは長州の毛利家といった有力な外様大名が複数存在する西国から近畿地方への入り口であったためと思われる。もしもの場合にはここで踏ん張って京や大坂といった重要地域を守ることのできる大名を置きたかったと考えると年若い大名を嫌った幕府の思考が理解できるのだ。実際、池田家が転封した後の播磨国姫路藩には、本多家・松平家・榊原家、酒井家といった譜代大名が入っており、外様は一度も入っていない。
また、池田氏には庶流・支藩の大名も多い。
因幡国鹿野藩・池田家3万石(光仲の次男・仲澄が祖)、
因幡国若桜藩・池田家2万石(光仲の四男・清定が祖)、
備中国鴨方藩・池田家2万5千石(光政の二男・政言が祖)、
備中国生坂藩・池田家1万5千石(光政の三男・輝録が祖)、
播磨国山崎藩・池田家3万石(光政の弟・恒元が祖。この所領を与えられた後、もともと分与されていた所領を兄に返却しているため、支藩ではない。3代目で跡継ぎがなく、断絶)、
備中国松山藩・池田家6万5千石(鳥取藩から移った長幸の家系、支藩ではない。末期養子が許されずに2代で断絶)、
播磨国赤穂藩・池田家3万5千石(輝政の五男・政綱が入り、その死後に六男・輝興が継いだが、突如狂乱して正室を殺害、改易された。支藩ではない)
があった。
岡山藩史上で「名君」として名が挙がるのは、なんといっても岡山藩池田家の光政である。
彼はその治世において数度にわたる大きな改革を行い、特に陽明学者・熊沢蕃山(自然破壊を警告する「天人合一」などの思想を唱え、晩年には再三幕政改革の提案をしたために幽閉された)を登用して教育・思想・宗教面の刷新を行い、質素を旨とする「備前風」と呼ばれる家風を確立させた。
さらに、時の将軍・家光に厚く信任され、外様大名でありながら(もともと池田家は特別扱いの家であるのだが)たびたび幕政についての意見を求められたという。
しかし、以後は洪水や凶作などの天災などもあって年貢収入が頭打ちになったこと、また幕府関連の出費の増大もあって、岡山藩も財政危機に陥った。そのため、代々の藩主も倹約や儀式の簡略化などで改革を図ったが、なかなか抜本的なものにはならなかった。
一方の鳥取藩は先述したような事情から、当初は幼い当主・光仲の代わりに家老たちが合議制で藩政を主導したが、やがて成長した光仲は首席家老を失脚に追い込むなどして家老たちを抑え込み、自らの親政によって統治機構を整備していった。また、この頃に神君家康を祀る東照宮を鳥取へ勧請しているのだが、これも自らの先祖である家康の権威によって藩主の権威を増大させようという思惑だったと考えられる。
しかし、鳥取藩もまた光仲の治世の後期にはすでに莫大な借金があり、これは江戸時代を通じて増加していった。そのために請免制(それまでの収穫によって税率が変化する方式と違い、税率を固定する定免制の別名。庄屋が徴税を請け負うため、鳥取藩ではこう呼んだ)を実施したが、これが原因になって大規模な一揆も起きている。
幕末期、岡山藩・鳥取藩はともに御三家の一つである水戸藩主・徳川斉昭の子を迎えていた。岡山藩の11代・茂政と、鳥取藩の14代・慶徳である(それぞれ最後の将軍である慶喜の兄弟)。
水戸藩は尊王攘夷思想の中心的存在であり、両者もそれぞれに尊王攘夷的姿勢を見せたが、討幕ではなく尊攘翼覇(幕府を補佐した上で尊王攘夷的行動を目指す)をかかげていた。このある種中立的な態度のために長州藩を擁護するような振る舞いをしばしば見せたが、一方で幕府や過激な尊王攘夷論者からは責められることもあった。
また、鳥取藩では尊王攘夷派と保守派の激しい対立をもたらして、京で尊王攘夷派による保守派の暗殺事件(本國寺事件)なども起きた。さらに、鳥取藩では第一次長州征伐をめぐっても再び藩論が分裂し、長州出兵を決めた慶徳の意志に反して、尊王攘夷過激派によって側近が殺害される事件まで起きた。以後、政治への熱意を失った慶徳ではあったが、鳥羽・伏見の戦いにおいては家老の決断により薩摩・長州以外では初の新政府側への参戦藩となっている。
一方、岡山藩の茂政は朝廷と幕府の板挟みになった末、備中国松山藩に対して攻撃命令が下ったことを機についに決断、新政府側について戊辰戦争へ兵を送った。しかし兄への義理立てから自ら出陣はせず、家督を支藩である鴨方藩主・章政へ譲っている。