久世家は家康の祖父・松平清康の頃から松平家に仕えたが、久世長宣が三河一向一揆で一揆側に加わって討ち死にし、その子・広宣は大久保忠吉に養育されることとなった。広宣は大須賀康高の配下として戦い、「大坂の陣」などで戦功を立てて、久世家を5千石取りの旗本へと押し上げた。
初代・広之は3代将軍・家光の信頼を得て出世し、4代将軍・家綱のときには老中にも任命される。石高は加増をくり返され、下総国関宿藩5万石に封じられた。その後、久世家は備中国庭瀬藩、丹波国亀山藩、三河吉田藩と転封を重ね、1705年(宝永2年)に関宿藩へと戻った。2代・重之の頃で、重之も老中を務め、1万石を加増されている。その後、4代・広明と7代・広周も老中に任命された。一度は罷免されたが、「桜田門外の変」の後、老中に再任して1万石の加増を受けた。
幕末期、佐幕派の藩士の一部が脱藩の上、彰義隊に合流したことを咎められ、新政府から5千石の減封を受けている。その後、明治維新となり、版籍奉還を経て9代・広業が関宿藩知事に任命された。広業には後に子爵位も授けられている。