加納家は紀伊徳川家に仕え、8代将軍・吉宗が誕生した際につき従って幕臣となった。
初代・久通は吉宗が和歌山藩主だった頃から御用役番頭を務め、吉宗が将軍になると御側申次に取り立てられ、加増の上、伊勢国八田藩1万石に入った。吉宗の側近として、「享保の改革」を進める手助けをし続けたという。
3代・久周も御側御用取次に任命され、老中・松平定信に近しいひとりとして、今度は「寛政の改革」を傍らで助けた。その功績から3千石の加増を受けている。
5代・久儔のとき、上総国一宮藩に転封となる。6代・久徴は大番頭から奏者番、若年寄と出世し、老中・安藤信正を中心とした公武合体政策が推し進められる中、加納家は皇女・和宮の護衛を任され、京都から江戸まで同行している。
8代・久宜のときに明治維新を迎え、新政府軍に恭順の意を示した。版籍奉還の後、久宜は一宮藩知事に任命され、地方裁判所長などを務めて子爵位を授けられている。