大須賀家はもともと下総国大須賀庄に根ざし、一族の大部分は関東北条家と運命をともにした。
譜代大名となった大須賀家は、一族の大須賀康高が徳川家康に仕え、遠江国横須賀城の城主となることから始まる。康高は本多忠勝らとともに、旗本の先鋒を務める名誉を与えられ、1584年(天正12年)には松平姓を使うことも許された。
初代・忠政は康高の養子となり、家督を継いで上総国久留里藩3万石に封じられる。養父の康高もさることながら、忠政の実父は徳川四天王の1人・榊原康政で、この2人の長年の功績を評価されての異例の厚遇だった。その後、「関ヶ原の戦い」の論功行賞で3万石を加増され、旧領の遠江国横須賀藩6万石へ転封される。
大須賀家の家督は2代・忠次に相続されるが、同じ頃、忠政の生家である榊原家が無嗣断絶の危機に陥る。このため、家康の計らいで忠次が榊原家を継ぐこととなり、大須賀家は断絶した。