内田家は遠江国勝間田郷で勝間田家を名乗っていたが、内田郷に移って内田正之が内田姓を使い始めたという。
初代・正信は3代将軍・家光の奥小姓から小姓組番頭となり、下野国鹿沼藩1万5千石に封じられた。3代・正偏のときに相続によって1万3千石となる。が、正偏は乱心して妻や娘に手傷を負わせたため、蟄居を命じられ、3千石の減封も受けて下総国小見川藩1万石に転封となった。
内田家は藩政にいそしみ、13代・正学のときに幕末を迎える。内田家は時勢を読んで新政府軍にまったく抵抗せず、明治維新を乗り越えた。版籍奉還を経て、正学は小見川藩知事に任命され、後に子爵位を授けられる。
さらに正学は陸軍大尉となり、貴族院議員も務め上げることとなった。