尾張国阿久比城主・久松俊勝の子孫であるため、久松松平家と呼ばれる。
初代・定勝は俊勝の四男で、徳川家康の義父弟に当たり、家康から直々に松平姓を与えられた。「関ヶ原の戦い」の翌年、遠江国掛川藩3万石に封じられ、「大坂の陣」の後には伊勢国桑名藩11万石へ転封となった。
2代・定行のとき、四国における初の譜代大名として伊予国松山藩15万石へ転封され、久松松平家は四国。中国地方の外様大名の監視役を任された。また、長崎への警戒も求められ、軍船や鉄砲などの購入も認められていた。
5代・定直は、先代の頃から続いた干ばつなどの天災で打撃を受けた藩財政を立て直すため、農業の抜本的な改革に乗り出した。
まず、田畑を質や位置、灌漑設備の状況などで等級に分け、集落の農民ごとに公平になるよう配分した。これが地坪制である。次に、これまで秋の収穫期に決めていた年貢の割合を春の段階で先に決める定免制を取り入れた。こうすることで従来はいちいち検地が必要だったところを不要にし、藩としては役人を派遣する費用を、農村としては役人を出迎える費用を削減した。
これらの改革は効果を発揮し、藩財政は増収に転じる。当初は定免制を受け入れなかった農村にも、徐々に広まっていった。定直は定免制を理解できない農村に無理強いすることはなかったので、領民からの評判もよかった。
6代・定英は水害対策のため、石手川の堤防を改善させる。しかし、1732年(享保17年)、西日本一帯を記録的な不作が襲う。春先の天候不順で麦が、夏場の干ばつで稲が大打撃を受け、さらに虫害が発生して草という草が食い荒らされてしまったのだ。
松山藩はこの被害をまともに受けてしまい、5千人あまりが餓死し、3千頭以上の牛馬が死んだ。全国での餓死者は1万数千人だった。定英は被害を防げなかったことから幕府に処罰されている。7代・定喬のときには九万山の農民3千人が隣の大洲藩へ逃げ出すという9万山騒動も起こった。
9代・定静は米や銀の貯蓄を法制化し、藩財政の立て直しを図る。しかし、思うほどの成果は上がらず、10代・定国のときには松山城の天守が落雷による火災で焼失したのだが、資金難で修築することができなかった。
12代・定通はこうした状況を受け、藩士への俸禄を5割渡し、6割渡しという形で大幅に削減する。さらに人数扶持(藩士の家族の人数に応じて俸禄を出すこと)を何度も実施し、徹底して歳出を抑えた。また、藩校・明教館を創設し、倹約を旨とする気風を養うために藩士の子弟をほとんど強制的に入学させた。
農村には米や銀を貯蔵する「社倉」を法令として用意させ、予期せぬ災害に備えた。殖産興業にも着手し、和紙や蠟、綿、木綿などの生産量を向上させて、特産の松山縞なども生み出した。
そんな定通は松山藩の中興の英主として名を残している。
13代・勝善も財政難との戦いに明け暮れる。しかし、江戸城西の丸および本丸の焼失からの再建や松山城天守の再建、安政の大地震の復興、京都御所の修築などで出費がかさみ、藩士の俸禄削減や領民からの上納では間に合わなくなり、大坂商人からの借財がふくらんでいった。
14代・勝成のときには2度の長州征討が行なわれる。松山藩は四国からの兵力として出兵したが、第二次長州征討で宇和島藩、土佐藩、高松藩、徳島藩がいずれも出兵を拒み、松山藩だけが兵を出すことになってしまう。挙句の果てに松山藩は萩藩の猛攻にさらされて敗退し、人的にも心理的にも大きな打撃を受けてしまった。
15代・定昭はオ能を買われて老中首座に任命されるが、すでに幕政を立て直すことは不可能で、早々に辞職する。「鳥羽伏見の戦い」では松山藩は朝敵とみなされ、土佐藩の攻撃を受けた。藩内は抗戦か恭順かで割れるが、やがて恭順の方針でまとまり、松山城は無血開城される。定昭は蟄居を命じられ、久松松平家の家督はふたたび勝成に受け継がれた。また、久松松平家は新政府から久松姓を名乗るように通達され、松平姓を捨てることとなる。
版籍奉還の後、勝成は松山藩知事に任命される。その後、定昭が家督を継ぎ、藩知事も務めることになった。