三河国深溝郷を拠点とし、祖先は松平家に仕え、初代・家忠の父の代からは徳川家康に仕えた。「長篠の戦い」で父は討ち死にするが、家忠はその後も小牧。長久手の戦いや小田原攻めに従軍し、武蔵国に1万石を与えられて忍城主となった。その後、下総国上代藩、下総国小見川藩へ転封された。
1599年(慶長4年)、家康が上杉征討に向かうに当たり、家忠は鳥居元忠らとともに伏見城の守りを命じられる。伏見城は石田三成の命を受けた小早川秀秋の大軍に襲われ、家忠は西の丸を守ったが、支えきれずに自刃した。
2代・忠利は関ヶ原の戦いで小見川城を守備し、旧領の三河国深溝藩1万石を与えられた。さらに曾祖父、祖父、父と三代にわたって松平家および徳川家のために戦死した功績をたたえられ、2万石を加増されて三河国吉田藩へ転封された。
3代・忠房は14歳で家督を相続するが、吉田藩の重要性と忠房の若さを理由に深溝松平家は三河国刈谷藩に移された。1649年(慶安2年)には1万5千9百石を加増されて丹波国福知山藩へ、1669年(寛文9年)にはさらに2万石を加増されて肥前国島原藩へ転封となった。
島原藩は当時、「島原の乱」による混乱などもあって最も治世が難しいといわれていた。しかし、忠房は福知山藩の藩政を建て直して善政を敷き、その手腕を4代将軍・家綱に認められたため、この地を任されたとされている。
忠房は島原藩に課せられた長崎警固役の役目を果たしながら、検地や宗門改めを行ない、領民統治の基盤を築いていった。ただ、長男は早逝し、次男は乱行が目立つために廃嫡、三男も早逝したため、後継者は養子の4代・忠雄に任せるしかなかった。
忠雄は天災で悪化した藩財政の再建を目指し、側用人に黒川政勝を登用する。1730年(享保15年)には藩で初めての農民一揆が起こり、その後も虫害の発生や疫病の流行などで領民の不満が募る一方、黒川政勝が専横を始め、藩政は混乱の一途をたどった。
5代・忠俔は家督を相続後、すぐに黒川政勝を解任して死罪とし、側用人政治を破棄する。また、家臣に貸しつけた米や銀の取り立てを免除して救済した。
6代・忠刻も徹底した質素倹約令と殖産興業策を実施し、島原藩の特産品となる蠟の生産の基盤を固めた。
7代・忠衹のとき、若年を理由に深溝松平家は下野国宇都宮藩6万5千9百石に転封される。8代・忠恕のときにふたたび島原藩へ戻された。
忠恕は藩札の発行などで藩財政を立て直し、農民の救済を図った。が、1792年(寛政4年)、眉山の大噴火という未曾有の災害が起こる。山麓が崩れて水があふれ出し、海からは津波が襲って島原藩では1万人以上の死者が出た。以降、代々の当主は、この災害からの復興にかかりきりになる。
11代・忠誠のとき、外国船の往来の激化から幕府に海岸防備の強化を厳命される。1845年(弘化元年)、オランダやイギリス、フランスの艦船が次々に長崎に入港し、深溝松平家はそのたびに兵を送った。
この頃、藩の処刑場である今村刑場で日本初の死体解剖が行なわれている。西洋医学の普及を目指した事業の一環で、実際に全国的に西洋医学が広まる端緒となった。
12代・忠精は軍備を増強し、大砲の鋳造や砲台の新設に力を注いだ。しかし、天災と疫病の発生がその費用に重なり、藩財政はさらに逼迫していく。
15代・忠和は養子となって深溝松平家に入った。が、その出自は水戸藩主・徳川斉昭の子で、将軍・慶喜の弟だった。深溝松平家が歴代の譜代大名であり、自身も将軍の血縁である忠和は、幕末の混乱期に慎重な行動を取った。2度の長州征討には佐幕派として出兵し、幕府の命令に従ったものの、新政府軍が組織されるとそちらに帰順する。こうした動きが功を奏してか、版籍奉還後、忠和は島原藩知事に任命され、さらに後には子爵位も授けられている。