三河国滝脇郷を拠点とし、松平家および徳川家に仕えた。松平正勝は「大坂夏の陣」に青山忠俊の配下として参戦、討ち死にし、形原松平家から重信を迎えて後継ぎとした。さらに重信の甥の信孝が家督を継いで滝脇松平家の初代となる。
信孝は重信から5千石の石高を受け継ぎ、1681年(天和元年)に1千石を加増、1689年(元禄2年)には若年寄に任命されて4千石を加増され、駿河国小島に陣屋を定めた。続く2代・信治のときに上野国と武蔵国にあった領地を駿河国に替えられ、陣屋を建てて滝脇松平家は正式に小島藩主となった。
3代・信嵩、4代・昌信はともに藩財政の改革に努め、足軽への俸禄を整理して歳出を減らしたり、税制を改めて増収を図ったりした。しかし、凶作の影響を押さえきれず、昌信のときには百姓一揆も発生している。
また、小島藩では和紙の生産が奨励された。6代・信圭は活発化した和紙生産に対し、紙船役を徴収して藩の収入の一部としている。9代・信進のときには有力農民が御産物支配方や御産物問屋に任命され、和紙の独占的な集荷と専売を制度化した。
11代・信敏は幕政に加わり、幕末の混乱を食い止めようと奔走した。1862年(文久2年)、信敏は目付に任命され、京都・大坂に派遣されて海岸線の調査を命じられる。その後、大坂町奉行、大日付、ふたたび大坂町奉行と歴任し、「鳥羽伏見の戦い」を終えてからは公事方勘定奉行に任命された。
しかし、新政府軍が関東に向かって進み始めると、尊王の意志を明確にし、徳川宗家が駿府藩に封じられたことに合わせて上総国金ヶ崎藩に移る。その後、金ヶ崎の立地が不便だったため、上総国桜井藩に移動した。このとき、滝脇松平家は姓を松平から滝脇に改めている。信敏は版籍奉還の後、桜井藩知事に任命され、さらに後には子爵位を授けられた。