三河国桜井郷を領有したことから桜井松平家と称する。
初代・家広は家康の関東入部にともない、14歳の若さで武蔵国松山藩1万石に封じられる。
2代・忠頼は上杉征伐に従軍し、「関ヶ原の戦い」の後、論功行賞において美濃国金山に2万5千石を加増される。翌年、さらに2万5千石の加増を受け、遠江国浜松藩5万石へ転封された。
ところが、1609年(慶長14年)、忠頼は水野忠胤の江戸屋敷に招かれ、そこで忠胤と家臣との口論に巻き込まれた上、刺殺されてしまう。忠胤は責任を取って切腹を命じられるが、桜井松平家も恥をさらしたということで所領を没収されてしまった。
3代・忠重は武蔵国深谷に8千石を与えられ、家の再興に乗り出す。そして1622年(元和8年)に7千石を加増され、上総国佐貫藩1万5千石に封じられて譜代大名の座に返り咲いた。さらに1万石を加増されて駿河国田中藩へ転封され、その後も1万5千石の加増を受けて遠江国掛川藩4万石を治めるに至るまで桜井松平家を発展させた。忠重も後に奏者番に任命されている。
4代・忠倶のとき、忠倶が幼少であったことから信濃国飯山藩に転封されるが、5代・忠喬のときにふたたび掛川藩に戻り、さらに摂津国尼崎藩に封じられた。尼崎藩では朝鮮使節の饗応役を命じられ、代々これを務めることとなる。
7代・忠告は比叡山の山門や堂社の造営などを務める一方、俳諧を好んで谷素外に師事していた。この頃、尼崎藩の江戸下屋敷の敷地内に松尾芭蕉が暮らしたとされる庵(芭蕉庵)があったため、その碑を屋敷内に建立している。また、忠告は学問も奨励し、藩校も設立した。
10代・忠栄のとき、「大塩平八郎の乱」が起こる。桜井松平家は大坂城代の命に従い、これを鎮圧するために兵を差し向けた。また、忠栄は藩の財政危機を救うべく、大坂の商人を登用したが、失敗に終わっている。
1843年(天保13年)には大砲七門を鋳造し、後にロシア艦船が大坂湾に侵入した際には海岸警備にも当たった。江戸ではフランス人宿舎として使われた済海寺を警固し、これは11代・忠興にも引き継がれた。
幕末を迎え、京都や大坂が不穏な情勢になる中、桜井松平家は農兵制の採用や砲台の新築などで領内の警備を固めていく。そして、「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍に加わることを表明し、姓を桜井に戻した。
版籍奉還を経て、忠興は尼崎藩知事に任命される。彼は西南戦争の折、佐賀藩士であり、後に元老院議長を務める佐野常民らとともに、日本赤十字の前身である博愛社の創設に尽力したと伝えられている。