三河国形原郷を拠点としていたため、親藩の松平家と区別して形原松平家と呼ばれる。
初代・家信は酒井忠次の配下として徳川家に仕え、「小牧・長久手の戦い」や小田原攻めに加わって上総国五井に5千石を与えられた。1601年(慶長6年)に旧領の形原を与えられ、1618年(元和4年)、5千石を加増されて三河国形原藩1万石の譜代大名として封じられた。
翌年、摂津国高槻藩2万石に転封。その後、さらに2万石を加増されて下総国佐倉藩4万石に転封となった。
2代・康信のときにも加増は続き、丹波国篠山藩5万石に封じられる。畿内の要衝を任され、1660年(万治3年)には落雷で壊れた大坂城を修築し、翌年は京都御所炎上に際して京都の守護に当たった。
幕閣としては、5代・信庸が老中に任命され、8代将軍・吉宗が現われるまで幕政を動かした。信庸は藩政においても学問向上にも努め、儒学者・松崎蘭谷や和算家・万尾時春らを招いている。
6代・信岑のとき、丹波国亀山藩5万石へ転封される。8代・信道は1788年(天明8年)の京都の大火(天明の大火)の折、二条城や禁裏を警固した功績から奏者番兼寺社奉行に任命され、老中・松平定信の側近として幕政に関与した。12代・信義は老中に任命され、生麦事件や薩英戦争などの処理を担当している。
13代・信正が幕末を迎えたときの藩主で、亀山藩の総意として佐幕派の意思を示した。しかし、西園寺公望の率いる新政府軍を前に降伏し、版籍奉還を経て信正は亀山藩知事になる。このとき、伊勢国亀山藩との混同を避けるため、亀岡藩と改称した。
信正は後に子爵位を授けられている。