平安時代に海賊として西国を席巻した藤原純友の末裔と称するが、実際には平氏の一族であり、肥前国高来郡有馬荘の地頭になったことからこの名を名のるようになったようだ。だから本来は北九州の勢力であった。
室町時代より勢力を伸ばし、一時期は同じ肥前の龍造寺家が台頭したことによって衰退したものの、キリシタン大名として名高い有馬晴信がイエズス会の助力を得てその圧迫に耐え、また島津家の援軍を得て龍造寺隆信を敗死させるに至った。しかし今度は島津家に圧迫されたため、豊臣秀吉の九州征伐が始まるとこれに臣従、4万石の本領を安堵されるに至った。さらに関ヶ原の戦いでは当初西軍に付いたものの、いちはやく東軍へ寝返り、所領を守った。
ところが、間もなく大きな事件が起きてしまう。
きっかけになったのは、晴信がマカオヘ船を派遣したところ、ポルトガル船マードレ=デ=デウス号の船員と衝突、日本側の水夫が数名殺害されるとともに積荷まで奪われたことだった。これに激怒した晴信は徳川家康の許可を取った上で長崎にやってきたデウス号を撃沈、家康に称賛されるに至った。
晴信はこれに乗じて鍋島家に奪われていた旧領を取りもどそうと画策、幕府重臣・本多正純の家臣である岡本大八に同じキリシタンであるというよしみから接近、多額の金銭を贈って政治工作を行った。しかしこれは大八による詐欺であり、実際には大八はすべての金銭を自分の懐に入れていた。
激怒した晴信は幕府に大八を訴えたが、道連れを狙った大八が「晴信が長崎奉行を毒殺しようとしていた」と訴え、これに対して言い逃れをすることができなかったため、配流処分を受け、ついに自決するに至った。
この事件は有馬家にとっても大事件だったが、日本史の観点からしてもキリスト教が弾圧されていくきっかけになった重要な事件であった。
岡本大八事件で大きな汚名を背負うことになった有馬家であったが、晴信の嫡男・直純は幼い頃から家康に近く、さらにその養女を妻として迎えるなど徳川家との関係が非常に深い人物であったため、無事に家督と所領を相続することが許された。
こうした縁もあり、のちに有馬家は譜代大名となっている。
直純に代替わりして間もなく、有馬家は日向国県(延岡に改名)5万3千石へ転封され、さらに4代・清純の代になって大規模な一揆が起きたことから越後国糸魚川5万石へ、さらに越前国丸岡へ転封され、以後この地に落ち着いた。
この清純の時には財政危機が厳しく、糸魚川へ移る際には多数の藩士をリストラしたがそれでも多くの藩士が自費で移動することになったとか、丸岡に移ってからも2度の大々的なリストラを敢行したなどの逸話が残っている。こうして財政難に苦しんだ丸岡藩の立て直しに尽力した名君として知られるのが、8代・誉純である。奏者番・寺社奉行・若年寄と幕府の要職を歴任した彼は、藩政改革においても力を発揮した。
厳しい税の取り立てによって一揆を引き起こした反省から、その地域の有力地主に徴税を任せてしまっていた従来のシステムを、「郷会所」という複数の地主が連帯責任で税の取り立てを行うシステムに変えたのである。結果、地主たちはそれぞれ助け合いながら少ない負担で農民を救済することができるようになり、藩政はとりあえず安定した。
幕末の動乱においては11代・道純が老中として外交問題に従事するなど、国難の時代に大きく関わった。しかし戊辰戦争が勃発すると速やかに上洛して新政府への恭順を示している。