大河内家はもともと三河国大河内郷を拠点としていた一族である。家康の命により、当主の正綱が三河の十八松平の一つ、長沢松平家を相続したため、松平姓の使用を許されて大河内松平家が成立した。
正綱は家康に仕えた後、2代将軍・秀忠のもとで勘定頭に任命され、相模国甘縄藩2万3千石に封じられて、譜代大名・大河内松平家の初代藩主となっている。また、彼は家康の墓所である日光の造営を任され、20年以上にわたって江戸と日光を往復した。その間に植樹した杉並木は、今も日光の名所として残されている。
2代・正信のとき、正綱の養子となった信綱が、大河内松平家の別家を興す。信綱は正綱の兄の子で、大河内家の嫡流に当たり、大河内松平家は正信からつながる大多喜藩大河内松平家と、信綱からつながる吉田藩大河内松平家という、2つの系統が並び立った。
3代・正久のとき、大河内松平家は上総国大多喜藩2万石へと転封される。その後、大多喜藩に定着して藩政を進めるが、10代・正和のときに大多喜城天守が焼失する火事が起き、領内は大雨による水害に見舞われて大きな被害が出た。
11代・正質は幕末、若年寄に任命され、幕府の遊撃隊の指揮を執る。その後、老中も務め、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍を統率する立場となった。が、新政府軍に敗退し、正質は責任を問われて老中を罷免された上、謹慎を命じられる。さらに領地も没収されてしまった。
戊辰戦争の終結後、正質は赦免され、領地ももとに戻される。版籍奉還の後には大多喜藩知事に任命され、後に子爵位を授けられた。明治維新に際して、正質は松平姓の使用をやめ、大河内姓に戻している。