柳沢家はもともと甲斐国の武田家の家臣で、武田家が滅亡した後、徳川家に仕えた。柳沢安忠は3代将軍・家光の弟の駿河大納言・忠長に仕えていたが、忠長が幽閉されたことで浪人となり、上野国館林藩主だった徳川綱吉のもとで勘定頭を務めた。
初代・吉保は安忠の嫡男で、530石の石高を継ぎ、綱吉の小姓組番頭に任命された。綱吉が将軍家の世子となって江戸城西の丸に入ると、吉保もそれに同行し、小納戸役に任じられ、3百石を加増される。
その後、綱吉のもとで出世していき、1688年(元禄元年)に側用人となって1万石の加増を受け、1万2千3十石の譜代大名となった。
そこから吉保は異例の加増をくり返し、6年後には武蔵国川越藩7万2千3十石に封じられる。同時に老中格、さらに2万石の加増を受け、老中上席(大老格)にまで至った。1701年(元禄14年)には松平姓まで授かっている。
その後も綱吉の寵愛はとどまらず、徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)を綱吉の世子とした功績などの加増で柳沢家の石高は15万石を超えた。翌年、甲斐国甲府藩に転封され、22万8千石あまりという徳川家一門にも匹敵する破格の待遇を受けている。
幕政の面では儒学者の荻生徂徠や細井広沢らを登用し、文治政治を進めて元禄文化の隆盛に一役買っている。だが、一方で綱吉の威光を背にした独断専行的な色も濃く、周囲の評判は必ずしも芳しいものではなかった。
1709年(宝永6年)、綱吉の死去に伴い、吉保は職を辞して幕政から離れている。
2代・吉里は家督を相続する際、異母弟の経隆と時睦に1万石ずつを分与した。経隆は越後国黒川藩、時睦は越後国三日市藩をそれぞれ立てて、柳沢家の分家を興している。また、柳沢家は大和国郡山藩15万1千2百石に転封された。
吉保以降、柳沢家から幕閣の重臣は出ていない。だが、柳沢家の歴代当主は文化人としてすぐれた人物が多かった。
吉里は連歌や俳諧をたしなみ、『積玉和歌集』『潤玉和歌集』『続潤玉和歌集』などの著作を残している。3代・信鴻は岡田米仲をはじめ第一線の俳人に俳諧を学び、4代・保光は陶芸の「赤膚焼」を復興させて藩の産業としても役立てた。
7代・保申のときに幕末を迎え、京都の守護や皇女・和宮の江戸下向の護衛などに兵を派遣する。新政府軍からは、徳川家に特別な恩義のある家だとして疑いの目を向けられたが、松平姓の使用を取りやめて柳沢姓に戻し、戊辰戦争では軍事物資の輸送などで新政府軍に協力した。
版籍奉還後、保申は郡山藩知事に任命され、さらに後には第六十八銀行の郡山紡績所などを設立し、産業の発展に貢献した。のちに伯爵位も授けられている。
分家の越後国黒川藩柳沢家と、越後国三日市藩柳沢家もそれぞれ明治維新まで存続した。