於大の方の兄で、家康の叔父に当たる水野忠守からつながる系統である。
初代・忠元は2代将軍・秀忠に仕え、下総国山川藩3万石を与えられ、翌年には5千石の加増を受けた。2代・忠善のときには1万石を加増されて駿河国田中藩に転封されている。さらに7年後、5千石を加増されて三河国岡崎藩へと移った。
忠善は徹底した検地で、1万石強の年貢の増収を可能にした。一方、武勇を好んだために武功のある者を優遇し、その俸禄が藩財政を圧迫する結果となった。嫡男の忠春は忠善をいさめようとしたが、逆に忠善の怒りを買い、廃嫡されてしまっている。
5代・忠之のとき、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩による刃傷事件が起こる。忠之は幕府に命じられ、兵を出して江戸の浅野邸を取り囲んだ。
翌年、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが起こると、忠之は9人の浪士を預けられ、監視を任される。忠之は彼らを丁重に扱い、庶民にも感心されたという。
1717年(享保2年)、忠之は老中に任命され、8代将軍・吉宗の享保の改革を補佐することになる。年貢の増徴や新田開発で幕府の財政難を救い、功労者として1万石を加増されたが、反面、藩政にたずさわる余裕がなく、藩財政のほうは困窮してしまった。
7代・忠辰は藩財政の立て直しのため、身分の低い者たちを積極的に登用しようと藩政改革に乗り出す。ところが、重臣たちの猛反発にあい、忠辰と家臣たちの亀裂は武力衝突寸前にまで深まってしまう。
結局、忠辰が側近を解任して収まったが、改革は頓挫し、忠辰は自暴自棄になって乱行が目立つようになった。すると、今度は重臣たちが忠辰を座敷牢に閉じ込めるという、大名押し込め事件に発展してしまった。忠辰は失意のまま、死去する。
8代・忠任のとき、三方領地替えによって水野家は、肥前国唐津藩6万石へ転封された。忠任も藩財政の立て直しに着手するが、領民の負担が大きすぎたために「虹の松原一揆」と呼ばれる大規模な一揆が発生してしまった。
11代・忠邦のとき、水野家は遠江国浜松藩へ転封される。これは忠邦が幕閣に就くために工作した結果だった。
唐津藩には長崎見廻役の役目があり、藩主は幕閣に就くことができない。そのぶん、幕府からの援助があって、同じ石高の他の藩より圧倒的に財政は豊かだったのだが、忠邦はそれを捨ててでも転封を望んだのである。
忠邦は親戚筋の老中・水野忠成に取り入って、とんとん拍子に出世する。そして1835年(天保5年)、1万石を加増され、忠成の死去に伴って念願の老中首座に任命された。
忠邦は11代将軍・家斉と意見が合わなかったため、しばらく手腕を発揮できずにいたが、その家斉も死去したため、いよいよ幕政の改革に乗り出した。天保の改革である。
忠邦は、俗に言う家斉の「大御所時代」にゆるんだ綱紀を粛正し、徹底した歳出削減と物価の引き下げを行なった。しかし、あまりに急激で締めつけのきびしいやり方だったため、大名や旗本がいっせいに反対運動を起こし、庶民からも反発の声が上がって、忠邦はあえなく失脚した。
1844年(弘化元年)に老中に再任されるものの、翌年には病気のため辞職。すると、老中在職中に不正を働いたとの疑いをかけられ、加増された1万石を没収、さらに1万石を減封されて隠居謹慎を命じられた。
12代・忠精のとき、出羽国山形藩に転封される。忠精も老中に任命され、外国御用取扱兼勝手掛も務めた。
13代・忠弘は戊辰戦争に際し、当初は幕府軍に加わるものの、新政府軍に敗れて降伏した。版籍奉還を経て忠弘は山形藩知事に任命されるが、翌年には山形藩が廃藩となる。その後、近江国朝日山藩を立てて藩知事に就くが、これも翌年に廃藩置県を迎えた。明治17年、忠弘には子爵位が授けられている