沼津藩水野家の初代・忠清は水野家宗家の初代・勝成の弟に当たる。2代将軍・秀忠に仕え、上野国小幡藩1万石を与えられた。大坂夏の陣で青山忠俊と戦功を争って閉門を命じられるが、家康の臨終の際に枕もとに呼ばれ、これまでの功績に報いて1万石を加増すると伝えられた。三河国刈谷藩に移り、さらに2万石の加増を受けて三河国吉田藩4万石、1642年(寛永19年)には信濃国松本藩7万石へ転封された。
2代・忠職は領内の検地を行ない、税制を定める。が、藩財政はこのときから困窮し始め、増税が課されるようになって領民の間に不満が募っていった。
3代・忠直のときの1686年(貞享3年)、凶作にもかかわらず年貢の率が引き上げられたことで、中萱村の庄屋・多田加助を中心とした農民が松本城下に押し寄せた。加助たちは年貢をこれまで通りの率に引き下げるよう要求し、藩が受け入れないなら幕府への直訴も辞さない覚悟だった。この時代、平民の直訴は分をわきまえない行ないとして、即刻死罪とされた。
このとき、忠直は参勤交代のため、江戸にいた。家老たちは騒ぎを収めるべく、農民側の要求を受け入れたが、加助ら首謀者は捕えられ、28人が死罪となった。しかも、家老たちはその後、約束を守らずに高い率で年貢を取り立てようとしたため、農民たちはこれを忠直に訴え、忠直は過剰な年貢の取り立てをやめさせた。
この一連のできごとが「加助騒動」または「貞享騒動」と呼ばれている。加助は義民として語り継がれ、明治時代以降、彼を題材にした創作物がいくつも刊行される。中には、同じ時期に地震で松本城の天守が傾いたことを取り上げ、加助がにらみつけたために城が傾いた、などという伝説も生まれた。
5代・忠幹は藩政改革を目指し、質素倹約を奨励したが、藩財政を立て直すほどの効果は得られなかった。
6代・忠恒が大事件を起こす。忠恒は藩政をかえりみず、酒色におぼれる暗君だった。1725年(享保10年)、忠恒は8代将軍・吉宗に婚礼祝いの御礼のため、江戸城に登城した。それが済んだ後、松の廊下で毛利師就に突然斬りつけたのだ。
折しも、赤穂事件(赤穂浪士による吉良邸討ち入り)の直後で、水野家には即座に御家断絶、領地没収との処分が下された。「松本大変」「水野家落去」などといわれ、事件の衝撃は大きかった。
水野家の家名は忠恒の叔父の忠穀が継ぎ、家は7千石の旗本とされた。その嫡男で7代・忠友は田沼意次と知り合い、意次に合わせて出世する。
1768年(明和5年)、若年寄に任命され、三河国大浜藩1万3千石を与えられて見事に水野家を再興させた。その後、側用人になって7千石を加増の上、駿河国沼津藩に転封。老中格にも上り、さらに1万石の加増を受けた。
意次の失脚後、忠友は老中を解任されるが、後に西の丸老中に復帰している。
8代・忠成も出世の道を歩み、1818年(文政元年)に老中加判となっている。忠成は小判の改鋳によって約60万両の利益を上げ、その功績から加増されて水野家の石高は5万石に達した。
13代・忠誠のときに長州征討が行なわれ、水野家は従軍する。忠誠はこのとき老中を務めたが、14代将軍・家茂の死に合わせるようにして没する。
1868年(明治元年)、徳川家が駿河国・遠江国にまたがって転封されると、水野家も上総国菊間藩5万石に移された。翌年、版籍奉還が行なわれ、14代・忠敬が菊間藩知事に任命されている。後に忠敬には子爵位も授けられた。