牧野家は牧野氏勝が松平家に従ったことから譜代の家柄となる。2代後の成定は今川家に従って家康と戦ったが、酒井忠次や石川家成の取りなしで家康に従う道を選び、本領を安堵された。成定の死後、後継者争いで家康が康成を指名し、これが譜代大名・牧野家の初代となった。
康成は酒井忠次の娘を妻に迎え、忠次の配下として数々の武功を立てた。家康や秀忠から信頼され、徳川十七将の1人に数えられている。それらの功績から上野国大胡藩2万石に封じられた。
2代・忠成のとき、越後国長峯藩5万石へ転封される。その2年後には越後国長岡藩6万2千石に移り、さらに1万石の加増も受けた。
牧野家は学問や文化の隆盛に力を入れ、すぐれた人材を多く輩出している家でもある。4代・忠辰は「諸士法制」「町中掟」「郷中掟」を制定して藩士や領民を統制し、新田開発や殖産業の発展に貢献した名君だったが、同時に学問に秀で、5代将軍・綱吉の前で『論語』や『易経』の講義をするほどだった。
7代・忠敬は『牧野家系図』と『家譜』の編纂を命じ、8代・忠利の代に『家譜』が完成している。忠利と10代・忠精は絵画の名手としても知られ、特に忠精は雨竜の絵が評判を集め、「あま竜の殿さま」とも呼ばれたという。忠精は老中も務めた、多才な人物だった。
12代・忠恭も老中に任命され、外国御用掛を兼任しているが、この時期になると幕政は混乱の一途で、とても収拾のつく状態ではなかった。
13代・忠訓のとき、戊辰戦争が勃発。長岡藩は幕府に忠誠を誓い、軍備を整えた。
ここで活躍したのが、すでに藩財政の立て直しや軍備強化(フランス式軍事訓練の採用や新型銃・ガトリング砲の購入が有名)などで辣腕を振るっていた家老、河井継之助である。彼はもともと開国論者であり、また幕府による第二次長州征討に際しても長岡藩が参加するのをやめさせた人物だったが、大政奉還後の混乱を憂慮して「政権を再び徳川に委ねるべき」と主張、この戦争に際しても新政府軍からの出兵要求を黙殺した。
とはいっても、旧幕府よりというわけではなく、「中立」を打ち出すのが彼の真意であった。今は「争っている場合ではない」し、そもそも「巻き込まれたくもない」というのが本音であったのだろうと推測されるが、新政府がそのような曖味な立場を許すはずもなく、長岡藩と新政府軍とは開戦する。北越戦争である。
長岡城は一度、新政府軍に占領され、長岡藩軍がそれを奪い返し、ふたたび新政府軍によって落城するなど、戦いは激しいものになった。しかし、継之助が戦死したこともあって、やがて忠訓は追いつめられ、会津藩に逃げ込んで抗戦するものの、ついには降伏した。
牧野家は所領を没収され、14代・忠毅に新たに2万4千石が与えられた。忠毅は版籍奉還を経て長岡藩知事に任命されるが、病気を理由に隠居し、牧野家の家督は父・忠恭にふたたび受け継がれる。忠恭の死後、牧野家は忠篤が相続し、彼には後に子爵位が授けられている。