三河三奉行の一人とされる本多重次の家系。
重次の通称「作左衛門」から「作左衛門家」「作左家」と呼ばれる。
1613年(慶長18年)に2代・本多成重が越前国丸岡藩4万3000石を与えられて大名となる。この成重の幼名は仙千代で、重次が書いた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙である。
成重は丸岡城を改修し、さらに城下町の建設や治水工事などにも尽力した。
3代・重能、4代・重益とつづくが、1695年(元禄8年)3月23日、家臣の間に争いが起こった責任を取らされて改易となる。
重益は池田仲澄に身柄を預けられていたが、1709年(宝永6年)に徳川家宣が将軍就任すると、恩赦により罪を許されて旗本となった。