三河国岡崎藩本多家と同じ本多一族だが、弥八郎家と通称される。本多正信を初代とし、彼の呼び名が弥八郎であったことからこう呼ばれている。
初代・正信は家康の寝所にまで出入りを許されたという側近中の側近で、家康が関東地方を治めるための一助として相模国甘縄藩1万石に封じられた。その後、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、大久保忠隣ら宿老と肩を並べて幕府の草創期を支え、2代将軍・秀忠の家老も務めた。よく知られた「百姓は財の余らぬように、不足なきように治めること」の方針を示し、幕府の農民支配の原則を打ち出したとされる人物でもある。
2代・正純も父同様、徳川家の中枢で活躍し、豊臣家を滅ぼすために知恵をしばった。また、金地院崇伝、南光坊天海とともに家康の遺言を聞き、御三家への遺産の配分や日光東照宮の造営にもかかわった。
1619年(元和5年)、下野国字都宮藩15万5千石で入封する。ところが3年後、秀忠の命で突然改易されてしまった。正純が居城の宇都宮城に釣り天井をしかけ、秀忠を暗殺しようとした「宇都宮城釣天井事件」という俗説が生まれたできごとである。
正純によって失脚した譜代大名・大久保家や秀忠の姉・加納御前の陰謀などともいわれているが、真相ははっきりしていない。正純は出羽国に配流され、幕府が新たに与えるという5万5千石を固辞し、そのまま病死した。正純が父の言葉を聞き入れ、堅実な統治を行なっていれば、結果は違ったかもしれない。いずれにせよ、弥八郎本多家の宗家はこうして、わずか2代で断絶してしまった。