沼田藩の成立および沼田真田家の独立は真田家の家督相続をめぐる騒動によるものである。
1656年(明暦元年)に真田信之は次男の信政に家督を譲って隠居する。これは長男の信吉や信吉の長男で嫡孫にあたる熊之助がすでに死去していたためであるが、わずか2年後の1658年(万治元年)2月に信政も死去してしまう。
このとき信政の六男でまだ2歳と幼かった信房(のちの幸道)への家督相続に対して、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信直(信利)が異を唱え、後継者争いが勃発する。信直は幕府に訴えたため、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となるも、最終的には幸道への相続が認められ、信之が復帰して藩政を執ることとなった。
沼田藩主として独立した信利は、本家である松代藩への対抗意識からか強引な検地を実行、「実高は14万4千石です」と幕府に報告した。これはもちろん過大な数字であり、極度の重税を課せられた農民たちを大いに苦しめた。これに加え、江戸両国橋修理のための材木供出のために人を動員したことが彼らの怒りをさらに煽り、結局農民たちの抵抗により材木は期日に間に合わず、それどころか一揆まで招いてしまった。この罪を問われ、沼田真田家は改易となったのである。