近江国宮川藩・堀田家の分家という位置付けの佐倉藩堀田家であるが、宗家の2代・正信の弟・正俊が初代となる。正信が改易を受け、家名だけが残ったため、こちらが堀田家の中心的存在となった。
正俊は当初、上野国安中藩2万石に封じられた。その後、いくらかの加増を受け、延宝7年に老中に任命される。そして、常陸国水戸藩を治める徳川光圀らを味方につけて5代将軍に綱吉を擁立した。
その功績によって正俊は1681年(天和元年)、大老に任命され、5万石を加増されて下総国古河藩9万石へ転封される。翌年にはさらに4万石の加増があり、石高は13万石となった。
正俊は綱吉を補佐し、大名への信賞必罰を明示した「天和の治」と呼ばれる幕政を展開する。しかし、厳格すぎるやり方に諸大名の不満が募り、綱吉も次第に正俊を遠ざけるようになった。
正俊は1684年(貞享元年)、若年寄の稲葉正体に江戸城内で刺殺される。一説には、横暴に振る舞う正俊への怒りが爆発したともいわれている。この一件を機に、将軍と老中の部屋が離されたため、幕府では側用人の権勢が増すことになった。
2代・正仲は家督を継ぐ際、弟の正虎と正高にそれぞれ2万石、1万石を分与し、自身は10万石を領した。正仲のときに堀田家は出羽国山形藩、陸奥国福島藩へと転封されている。
福島は山形に比べて土地が悪く、藩財政はきびしくなった。綱吉が正俊を疎んじていたことが、この転封の背景にはあったのかもしれない。正仲は家臣の俸禄を減らす歩引法によって、どうにか藩財政を維持した。
正仲には後継ぎがいなかった。そのため、弟の正虎が3代目として家督を継いだ。正虎は下野国大宮藩を立ててそこを治めていたのだが、このときに廃藩となっている。
ちなみに正仲と正虎は双子で、当時は双子があまりよく思われなかったため、正虎は13歳まで母方の実家の稲葉家に預けられていた。
正虎の代に堀田家は再度、山形藩へ転封される。正虎は大宮藩の家臣をすべて連れていったため、藩財政は改善されなかった。しかたなく、家臣を減らすことにしたが、誰を選ぶか、正虎はくじ引きで決めたという。正仲の代から苦労をさせていた家臣を慮ったのか、ただ優柔不断だったのかは、定かではない。
5代・正亮のときに堀田家は下総国佐倉藩へと落ち着いた。正亮は藩政改革のため、家臣の士気を高めようと、継続されていた歩引法を撤廃した。また、正亮は老中首座として9代将軍・家重を補佐している。幕閣の要職に堀田家が返り咲いたことで、藩内の空気は活性化したと思われる。
9代・正睦も水野忠邦に推挙され、老中に任命されている。ただ、正睦は「天保の改革」を脇で支えたものの、失敗に終わり、老中を罷免された。その後、藩政でその手腕を発揮し、特に洋学の振興に力を注いで「西の長崎、東の佐倉」といわれるほどにまでなった。また、日本で初の私立病院とされる順天堂も開設している。
1856年(安政2年)、老中に再任。アメリカ総領事のハリスと日米修好通商条約に関する会談も行なった。しかし、14代将軍をめぐる幕閣の対立で一橋派に属したため、大老・井伊直弼によって罷免される。
続く10代・正倫のときに明治維新を迎え、佐倉藩堀田家は新政府軍に恭順した。正倫は版籍奉還を経て佐倉藩知事に任命され、後に伯爵位を授けられている