林家は家康の6代前の先祖・松平親氏の頃から松平家・徳川家に代々旗本として仕えた。譜代大名の一家として名を成すのは11代将軍・家斉の時代になってからである。
林家の初代・忠英は家斉の小姓となり、その寵愛を受けて出世した。小姓頭取、小姓組番頭格御用取次見習、御側御用取次と進み、石高ももともと領していた3千石から7千石まで加増された。
1825年(文政8年)、忠英は若年寄に任命され、3千石を加増される。こうして上総国貝淵村に陣屋をかまえて貝淵藩を立てた。その後、家斉が将軍職を退いてからも本丸若年寄を務め、計8千石を加増される。しかし、家斉の死去によって後ろ盾を失うこととなり、若年寄を免職され、8千石も減封された。
2代・忠旭のとき、陣屋を請西村に移して請西藩となる。その3年後、浦賀にペリーが来航し、幕政に混乱をきたし始めた。
4代・忠崇は戊辰戦争において、徹底した佐幕派として行動する。「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍が敗れると、忠崇は人見勝太郎や伊庭八郎らとともに遊撃隊を組織し、箱根の関所を占領した。
攻勢はここまでで、新政府軍の前に敗退をくり返し、奥州へと追い込まれていく。仙台藩の降伏によって幕府軍の大部分は新政府軍に屈したが、忠崇の抗戦論は揺るがず、榎本武揚らと蝦夷地に向かうことも考えていた。が、仙台藩の説得を受けてとうとう降伏し、唐津藩の江戸藩邸に囚われている。
請西藩は領地を没収され、明治維新の中で唯一、取り潰された藩となった。しかし、林家の家名の存続は許されたのである。
忠崇は1941年(昭和16年)、日本最後の大名として死去した。