三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は、北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落とせばどこからも攻めこまれないようになっていました。
引橋はのちに地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
現在は、関東大震災による隆起で、往時の面影は薄らいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
室町時代の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀や土塁に往時を偲ぶことができます。
草で見づらいですが、堀切かと思われます。
東大地震研究所の周りを囲んでいます。
綺麗な花やお酒がたくさん捧げられていました。
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