山田城跡
龍廻城、朝霧城ともいい、本丸、二の丸(勢城)、上総城、安房城、取添などからなる。
正平一四年(一三五九)肥後の相良定頼が築いたといわれ、のち、真幸院の北原氏が入った。
その後、天文一ニ年(一五四三)都城の北郷忠相が攻め落として北郷忠茂を城主とした。
文禄四年(一五九五)北原氏が宮之城に移封されかわって伊集院忠棟が都城領主となり、その支配下となった。
慶長四年(一五九九)忠棟が伏見で島津忠恒に殺されると、その子忠真が都城外十ニ外城に拠って島津宗家と戦った(庄内の乱)。当城には長崎治部少輔、長崎休兵衛らが籠城したが、島津家に攻め落とされた。
乱後、北郷氏が領主に復帰したが、元和元年(一六一五)一国一城令により廃城となり、のち、地頭仮屋がおかれて、村統治の業務を行った。
平成十七年八月
山田町教育委員会
山田城跡 龍廻城、朝霧城ともいい、本丸、二の丸(勢城)、上総城、安房城、取添などからなる。 正平一四年(一三五九)肥後の相良定頼が築いたといわれ、のち、真幸院の北原氏が入った。 その後、天文一ニ年(一五四三)都城の北郷忠相が攻め落として北郷忠茂を城主とした。 文禄四年(一五九五)北原氏が宮之城に移封されかわって伊集院忠棟が都城領主となり、その支配下となった。 慶長四年(一五九九)忠棟が伏見で島津忠恒に殺されると、その子忠真が都城外十ニ外城に拠って島津宗家と戦った(庄内の乱)。当城には長崎治部少輔、長崎休兵衛らが籠城したが、島津家に攻め落とされた。 乱後、北郷氏が領主に復帰したが、元和元年(一六一五)一国一城令により廃城となり、のち、地頭仮屋がおかれて、村統治の業務を行った。 平成十七年八月 山田町教育委員会
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