茶臼山山頂にあります。
「受けた恩義よりも、金や身分などの欲に溺れる者は果たして人と呼べるだろうか。」という有名な名言です。
幸村の父昌幸は、武田家の家臣であり武田信玄とその子勝頼に使えていました。一五八二年、勝頼は織田信長に敗れ武田家は滅亡します。昌幸は織田家に降伏し所領を安堵されますが直後に本能寺の変が起きて信長が殺害され、情勢は変わります。昌幸の上野国は徳川・北条・上杉の三大勢力に挟まれる地域で、三千人規模の兵しか動員できない真田家のみで勢力を維持するのには限界がありました。そこで昌幸は上杉氏に帰属しその保護を受けることを選びます。この時、幸村は上杉の領国である越後に人質として送られます。戦国時代は大名や武将の子供がより強い勢力の下に人質として送られていました。裏切りを起こさせないために子供たちが使われていたのです。たとえば、徳川家康の次男である秀康も豊臣秀吉の下に送られていたように当時はこれが当然でした。一方、真田家が上野や信濃の領地を守るべく奮闘している間に豊臣秀吉が天下統一を果たします。昌幸は秀吉と渡りをつけ真田は豊臣直属の大名になります。幸村は越後から大坂におくられ今度は豊臣秀吉の人質となります。幸村は秀吉にたいそう可愛がられていてそのことをとても感謝していたと言われています。また、大坂滞在時に豊臣家臣大谷綱吉(吉継?)の娘と結婚し幸村と豊臣家のつながりはより深いものになります。この言葉は関ヶ原の戦いで莫大な報酬で味方につけようとした東軍に誘いを受けた時に幸村が発した言葉とされています。戦国時代に人として武将としてそのしがらみを肌に感じながら生きてきた幸村にとって豊臣から受けた恩義に対する忠誠心は強く、「豊臣には返すべき恩がある」として私利私欲ではなく、恩義を大切にする武士道を貫き通しました。真田幸村らしい生き方が込められた名言と言えます。
機種名 | Canon Canon EOS M2 |
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フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/40 |
画像方向 | 水平(標準) |
真田幸村名言
「恩義を忘れ、私欲を貪り人と呼べるか。」「受けた恩義よりも、金や身分などの欲に溺れる者は果たして人と呼べるだろうか。」という有名な名言です。
幸村の父昌幸は、武田家の家臣であり武田信玄とその子勝頼に使えていました。一五八二年、勝頼は織田信長に敗れ武田家は滅亡します。昌幸は織田家に降伏し所領を安堵されますが直後に本能寺の変が起きて信長が殺害され、情勢は変わります。昌幸の上野国は徳川・北条・上杉の三大勢力に挟まれる地域で、三千人規模の兵しか動員できない真田家のみで勢力を維持するのには限界がありました。そこで昌幸は上杉氏に帰属しその保護を受けることを選びます。この時、幸村は上杉の領国である越後に人質として送られます。戦国時代は大名や武将の子供がより強い勢力の下に人質として送られていました。裏切りを起こさせないために子供たちが使われていたのです。たとえば、徳川家康の次男である秀康も豊臣秀吉の下に送られていたように当時はこれが当然でした。一方、真田家が上野や信濃の領地を守るべく奮闘している間に豊臣秀吉が天下統一を果たします。昌幸は秀吉と渡りをつけ真田は豊臣直属の大名になります。幸村は越後から大坂におくられ今度は豊臣秀吉の人質となります。幸村は秀吉にたいそう可愛がられていてそのことをとても感謝していたと言われています。また、大坂滞在時に豊臣家臣大谷綱吉(吉継?)の娘と結婚し幸村と豊臣家のつながりはより深いものになります。この言葉は関ヶ原の戦いで莫大な報酬で味方につけようとした東軍に誘いを受けた時に幸村が発した言葉とされています。戦国時代に人として武将としてそのしがらみを肌に感じながら生きてきた幸村にとって豊臣から受けた恩義に対する忠誠心は強く、「豊臣には返すべき恩がある」として私利私欲ではなく、恩義を大切にする武士道を貫き通しました。真田幸村らしい生き方が込められた名言と言えます。
元和元年大坂夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於て大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日これを記念して植樹された。 例年五月に幸村祭が盛大に行われる。
茶臼山頂上にあります。 「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」 夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒の手紙の内容にはこう記されていました。大坂の陣の後、家康は首実検(※討ち取った敵の首を確かにそのものの首かどうか大将が自ら検査したこと)の際に「幸村の武勇にあやかれよ」というと、居並ぶ武将たちがこぞって遺髪を取り合ったそうです。家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸場(城?)内にて幸村を誉め讃えることを許す」としたそうです。 これは極めて異例なことであり、その幸村の戦いぶりに同じ戦国武将として感嘆していたのでしょう。又、兄の信之は「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必至に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」と語っています。戦場での幸村のイメージとはかなり異なりますが、普段は温厚なのに戦では我が身を張って強烈なリーダーシップを発揮するそんな幸村の人柄に惚れ集まった浪人集(衆?)は多くその結束力は強かったようです。事実戦局不利と見るや身内でも裏切り者が珍しくない戦国の世に幸村の家臣は誰も降参しなかったと言われています。これも幸村の高い人徳の賜物でしょう。庶民からも歌舞伎・講談のヒーローとされましたが幕府はこれを禁じなかったそうです。 保身や利害よりも武士としての誇りを身をもって体現した本物の侍。武士があこがれた武士。それが真田幸村です。 戦いに敗れた武将がこれだけ英雄としてとりざたされるのはおそらく幸村ぐらいでしょう。
ここでも真田一色でした。
茶臼山山頂にある立札6枚最後の紹介です。 真田幸村の本名は真田信繁(以下・・幸村)といい、武田家の家臣だった父・真田昌幸の次男として生まれました。「幸村」というのは後世の軍記物に記された名前です。変名を使ったのは真田幸村が天下人である徳川に逆らった人物だったため軍記物で描くのに遠慮があったのではないかと言われています。戦国時代の最後の戦いである大坂の陣で活躍し「日本一の兵(つわもの)」と称された人物です。 幸村の父・真田昌幸は武田家の家臣であり武田信玄とその子勝頼に仕えていたのですが、一五八二年勝頼は織田信長に敗れ滅亡します。その後、真田家をめぐる情勢は戦国の世を象徴するようにめまぐるしく変わり、兄の信之は徳川家康とその家臣である本田(多?)忠勝に見込まれ縁組をする一方、昌幸と幸村は豊臣直属の大名となります。天下分け目の関ヶ原の戦いでは皮肉にも信之と昌幸・幸村が東軍・西軍に分かれ戦火を交えることになりますが、このときどちらが勝ってもいいように別れたという説は有名です。敗者になり本来処刑となるはずの昌幸と幸村を信之と本田(多?)忠勝が徳川家康にとりなして命を助け、代わりに九度山に配流されたことから考えると、この説は策士らしい真田家の真実なのかもしれません。九度山でひっそりと生活を送ることになった昌幸と幸村は、武将としての地位を失い、信之からの仕送りや真田紐と呼ばれる商品を販売して生計を立てていたといわれています。この後、家康と大坂の陣で再び激闘を繰り広げることになるなど、この時はまだ夢にも思っていなかったでしょう。 しかし、徳川家康は豊臣家を滅ぼしたいとの考えが消えず、方広寺の鐘銘事件(※豊臣秀頼が徳川家康の勧めで方広寺大仏を再建した際、鐘の銘文中「国家安康」と「君臣豊楽」の字句が家康の名を分割し身を切断することを意味することと、豊臣家の繁栄を祈願しているという理由で非難し、大仏の開眼を遅らせ豊臣方を憤慨させた出来事)などで難癖をつけ豊臣家に挙兵を煽ります。これが一六一四年に起きた大坂の陣の始まりで、実は幸村はこの時すでに四七歳でそれまで大きな活躍がありませんでした。昌幸は一六一一年に死去しており戦乱を迎えることはありませんでしたが、幸村は豊臣方の誘いに乗り挙兵することを決めます。紀州の山奥でひっそりと終わるよりも武将として戦場に身を置くことを選びます。 大坂冬の陣における幸村の活躍は目をみはるものがあり、その勇名は知れ渡ります。とくに真田丸での攻防は徳川を攻めあぐねさせついに戦から講和での決着へと導きました。幸村の実力を認めた家康から寝返るように誘いをかけられたときにも最後まで豊臣家に忠誠を尽くし武将としてのプライドを貫きます。 最後の戦いの舞台となったこの茶臼山での「天王寺口の戦い」に於いても、幸村は、その武将としての才能を遺憾なく発揮し、わずか三千五百の兵で一万五千の越前隊を相手に真っ向勝負を挑み徳川家康の本陣に突撃し、武田信玄に三方ヶ原で敗れて以来一度も倒されたことがなかった家康の馬印(※武将が己の存在を誇示するために立てる旗)を倒し家康に自害を覚悟させるほど追いつめたといわれています。しかし時間と共に兵力の少ない豊臣方は劣勢に陥り、真田隊も安居神社まで軍を引かせます。幸村は神社の境内で傷ついた体を休めていたところ松平忠直の部隊に発見され、西尾仁左衛門という武将に打ち取られました。この時「我が首を手柄にせよ」と敵に告げたそうです。幸村らしい潔い最後と言えるでしょう。 武将としての誇りを持って戦った幸村の奮闘ぶりはすさまじく、敵方の武将たちの間でもその名は知れ渡りました。戦国時代の最後の戦いを飾った武将として伝説化したため美化された部分も多いと言われていますが、すでに天下人であり圧倒的に有利な状況にいた家康の本陣を幸村が突き崩したのは事実であり、その勇士が人々に痛快さを感じさせたのでしょう。今の時代に幸村が再びスポットを浴びるのは、自分の道を貫き通したその男としての生き様が注目されているからかもしれません。私利私欲に溺れるのではなく受けた恩義を大切にし、芯を持って決してぶれることなく己の使命を全うし自分より大きく強いものに真正面から立ち向かっていく潔さと、分厚いまっすぐな強さが今も昔も人々の心をつかんではなさないのかもしれません。
茶臼山頂上にあります。 「今は乱世の為、明日自分がどうなるかわかりません。」という意味。最後の戦いとなる「大坂夏の陣」の直前、義兄である小山田茂誠に宛てた手紙の一節だと言われています。又、この手紙で幸村は「豊臣方について本家に迷惑をかけ申し訳ありませぬ」とも書いていました。 冬の陣が終わった後、真田幸村は多くの諸将と同じく講和に反対したと言われています。講和の条件は城の外堀を埋めることで十二月二十日に和平が成立しました。この時、徳川家康の性格を熟知している幸村は真の家康の狙いをすでに読んでいたのかもしれません。講和が成立した時、幸村はすでに死を覚悟していたと言われています。そのため、この手紙は遺書とも思える内容でした。事実家康は講和の条件の外堀だけでなく「お手伝い」と称して豊臣方が工事を担当していたエリアまでどんどん埋めていき、一か月後には外堀、内堀、すべての堀が埋められ真田丸も壊されてしまいました。大阪城を丸裸の状態にしたうえで家康は秀頼に大坂から別の土地への国替えとすべての浪人の追放を要求してきました。これにきれた秀頼は「和議要求は我がドクロの前で言え!」とこれを拒否し最後の戦いとなる大坂夏の陣が始まります。幸村は不利な状況を重々承知で徳川に寝返ることもなく最後まで武将として豊臣方のために戦い抜くことを選びます。この手紙の内容にも恩義を重んじる“武士道”を貫き通した真田幸村の生き様が表れていると言えるでしょう。
茶臼山山頂にある案内板の一枚です。 「関東の兵はたくさんいるが、男と呼べるほどの人物は一人もいない」という意味の名言です。 一六一五年四月二十八日に始まった大坂夏の陣では、豊臣軍は七万、徳川軍一五万五千と約半分の兵力しか持たず劣勢は明らかでした。冬の陣の後、徳川との講和の条件として外堀をすべて埋められた大坂城はその城塞としての機能を失い、もはや裸同然にされていました。豊臣方の武将には城を捨て野戦に打って出るしか戦う道は残されていませんでした。五月六日「道明寺の合戦」では奈良と大坂を結ぶ道明寺付近で畿内入りする徳川軍を個々撃破する作戦をとりましたが、事前に内部から情報が流され徳川方にルート変更をされたうえ、濃霧で豊臣方の集結が遅れ孤立した後藤又兵衛、薄田兼相ら名将が伊達政宗の騎兵鉄砲隊の前に次々と倒されていきました。幸村が到着した時には戦場が壊滅しており撤退するしか道は残されていませんでした。幸村は撤退する大阪方の殿軍(最後尾)を務め、伊達軍に対して地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めました。殿(しんがり)とは撤退する味方の盾となり一人でも多くの味方を退去させるいわば決死の役割です。幸村は見事味方の撤退を成し遂げた際、この名言をひと吠えして悠々と帰還したそうです。
茶臼山頂上にあります。 冬の陣で幸村の武勇は広まり、家康から寝返りのための使者として叔父の真田信尹が幸村のもとにやって来ます。信尹は信濃に十万石を与えるからと説得します。断った幸村に対して今度は信濃一国(四十万石)すべてを与えると条件をつり上げた時に、きっぱり断った幸村の名言です。 徳川家康は大坂の陣が始まるとき真田が大阪城に入ったという話を聞きかなり焦ったそうです。家康は真田昌幸に上田合戦に於いて二度も苦渋をなめさせられており、昌幸の武将としての才覚と戦における策略に一目置いていたからです。しかし入ったのは昌幸ではなく幸村の方だと聞いて胸を撫で下ろし安心したそうです。やがてこの家康の安堵は大きな間違いであることを冬の陣の真田丸での幸村の活躍で思い知らされることになります。幸村の実力に脅威を抱いた家康は寝返りを計るよう使者を使います。この時幸村が放った言葉がこの名言です。幸村の豊臣家に対する忠義の精神と上田合戦で勝利をおさめたにも関わらず関ヶ原の戦いで敗戦を喫し、九度山でみじめな生活を強いられた徳川に対して強い敵意を抱き、武将としてのプライドを貫きとおした生き様がこの言葉から伺えます。
茶臼山山頂にあります。 「受けた恩義よりも、金や身分などの欲に溺れる者は果たして人と呼べるだろうか。」という有名な名言です。 幸村の父昌幸は、武田家の家臣であり武田信玄とその子勝頼に使えていました。一五八二年、勝頼は織田信長に敗れ武田家は滅亡します。昌幸は織田家に降伏し所領を安堵されますが直後に本能寺の変が起きて信長が殺害され、情勢は変わります。昌幸の上野国は徳川・北条・上杉の三大勢力に挟まれる地域で、三千人規模の兵しか動員できない真田家のみで勢力を維持するのには限界がありました。そこで昌幸は上杉氏に帰属しその保護を受けることを選びます。この時、幸村は上杉の領国である越後に人質として送られます。戦国時代は大名や武将の子供がより強い勢力の下に人質として送られていました。裏切りを起こさせないために子供たちが使われていたのです。たとえば、徳川家康の次男である秀康も豊臣秀吉の下に送られていたように当時はこれが当然でした。一方、真田家が上野や信濃の領地を守るべく奮闘している間に豊臣秀吉が天下統一を果たします。昌幸は秀吉と渡りをつけ真田は豊臣直属の大名になります。幸村は越後から大坂におくられ今度は豊臣秀吉の人質となります。幸村は秀吉にたいそう可愛がられていてそのことをとても感謝していたと言われています。また、大坂滞在時に豊臣家臣大谷綱吉(吉継?)の娘と結婚し幸村と豊臣家のつながりはより深いものになります。この言葉は関ヶ原の戦いで莫大な報酬で味方につけようとした東軍に誘いを受けた時に幸村が発した言葉とされています。戦国時代に人として武将としてそのしがらみを肌に感じながら生きてきた幸村にとって豊臣から受けた恩義に対する忠誠心は強く、「豊臣には返すべき恩がある」として私利私欲ではなく、恩義を大切にする武士道を貫き通しました。真田幸村らしい生き方が込められた名言と言えます。
ここ安居神社境内で休息中に散華しました。
大河ドラマ「真田丸」でも左衛門佐様が 力尽きて座っていましたね。
横向きで撮ってみました。
茶臼山にほど近いところにあります。
茶臼山から安居天満宮に行くまでに一心寺があります。そこに大坂夏の陣で毛利勝永隊に敗れ、奮戦死した本多忠勝の次男忠朝の墓があります。
和気橋と赤の幟が映えますね。
古墳なので、あまり高くないんですね。
夏の陣では赤備えがまるでつつじのような賑わいと伝わっています。鮮やかだったのでしょう。
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