伊奈城
伊奈城

[愛知県][三河] 愛知県豊川市伊奈町柳38


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.71(--位)
  • 見学時間:23分(--位)
  • 攻城人数:242(438位)

「葵の紋」発祥ゆかりの地

「葵の紋」発祥ゆかりの地
Arthur
   

この写真をいろんなキーワードで分類してみましょう。

  • まだ登録されていません

文字起こし

『葵の紋』発祥ゆかりの地
伊奈本多家の「立葵」と徳川家の「三つ葉葵」

 伊奈本多家の家紋は「立葵の紋」でこれは「フタバアオイ=二葉葵」という植物を紋章にしたものである。
 この「フタバアオイ」は、京都の賀茂神社の神紋とされていた。本多家の先祖の中務光秀が賀茂神社の社職であったことから、「立葵の紋」を本多家の家紋としたといわれている。
 享禄二年(一五二九)岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)は、吉田城(豊橋市)を攻めた。当時の伊奈城主の本多正忠は、清康軍に参加し、先陣をきって東門を破り、城を攻め落とした。ついで清康は軍を田原城へ向かわせたが、城主の戸田氏が降伏したので、正忠は直ちに清康を招き伊奈城に凱旋し、祝宴を開いた。
 この祝宴に、正忠は城下の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ、清康は大そう喜び、
 立葵は正忠の家の紋なり、此度の戦に、正忠最初に御方に参て、勝軍しつ、
 吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり。
 ー「藩翰譜」(新井白石編)ー
 この記述を裏付けるように、岡崎市の随念寺にのこされている清康の肖像画(岡崎市指定文化財)には「立葵の紋」が描かれている。
 このように、本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。これが、小坂井町が「葵の紋」発祥ゆかりの地といわれる由縁である。

平成九年三月三十日
豊川市教育委員会
伊奈史跡保存会

Arthurさんの当日の行程

伊奈城のほかの写真

すべてを表示

Arthurさんのほかの写真

すべてを表示

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

室町幕府論 (講談社学術文庫)

攻城団で室町幕府の事を知るにはベストな一冊として紹介されたので、読んでみました。室町幕府と言えば初代将軍の足利尊氏と三代将軍で金閣寺を建てた義満ぐらいしか知りませんでしたが、この本には室町幕府の政治体制が確立する四代将軍義持までの朝廷の祭祀・儀礼の復興など政治・社会情勢が詳細に書かれています。二代将軍義詮の跡を継いだ足利義満が、権力の象徴として大塔を建て繁栄しましたが、その子、義持は父のやり方を否定した中で政治体制を確立していったとの事です。また、その後の「下剋上」がこの時期の社会変化がきっかけであった事を知り、歴史って脈々と繋がっていることを痛感させられる一冊でした。

まーちゃんさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る