上重原町公民館の裏側(北側)、城址碑の近くに設置されている案内板です。
機種名 | Apple iPhone 12 Pro |
---|---|
ISO | 32 |
F値 | 1.6 |
ホワイトバランス | オート |
シャッタースピード | 1/208 |
レンズ焦点距離 | 4.2 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/208 |
画像方向 | 水平(標準) |
重原城跡(しげはらじょうあと)
一辺六十mの方形区画を主郭とする平城で、現在でも空堀と土塁の一部が東方の竹林中に遺存している。
ここ上重原町本郷(かみしげはらちょうほんごう)地区は、平安時代末に成立した重原荘(しげはらのしょう)の中心地域と推定され、本城は荘園を支配する荘司・地頭の居館として成立した伝承がある。
戦国時代の十六世紀前半、刈谷(かりや)に城を構える水野氏により、松平・今川勢への備えとして防御機能を持った城郭に改修された。天文(てんぶん)二十三年(一五五四)、織田方の山岡河内守(やまおかかわちのかみ)が守る本城は、今川氏により落城した。
その後、今川氏の城として役割を果たすが、永禄(えいろく)三年(一五六〇)、桶狭間の戦い後、廃城となった。
知立市教育委員会
平成三十一年三月
上重原町公民館の裏側(北側)、城址碑の近くに設置されている案内板です。
上重原町公民館の東側に、ダイナミックな空堀と土塁が残っています。
上重原町公民館の裏側(北側)の水路は堀跡だったと考えられています。
城址東側の小道沿いに、今川軍に攻められた際、身代わりとなり城主を助けた権現石が祀られています。
今川軍に攻められた際、身代わりとなり城主を助けた権現石です。大男に化け盾となったそうです。石には無数の矢の跡が残っています。 信じるか信じないかはあなた次第
城址東側の小道沿いに、今川軍に攻められた際、身代わりとなり城主を助けた権現石が祀られています。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する