城址の麓にある亀穴城址碑の近くに設置されています。
機種名 | Apple iPhone 12 Pro |
---|---|
ISO | 32 |
F値 | 1.6 |
ホワイトバランス | オート |
シャッタースピード | 1/5556 |
レンズ焦点距離 | 4.2 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/5556 |
画像方向 | 水平(標準) |
滝山城址(たきやまじょうし)
滝山城は、一六世紀半ばに、奥平貞能(おくだいらさだよし)が築いてここに居住したという。一名「亀穴城(かめあなじょう)」ともいう。
天正元年(一五七三)八月二十一日、作手の亀山城にいた奥平貞能・信昌父子は、武田方にそむいて亀山城を退いて、滝山城に入った。武田方は五千の軍勢を率いて、城の南面下の満足平(まんぞくだいら)に押し寄せた。城はすこぶる険しく攻めにくい。その上、援軍の徳川勢が駆け付け、武田方を包囲したこともあり、さすがの武田勢も退却した。奥平勢もこれを追って田原坂で激戦に及んだ。この戦いを滝山合戦という。
滝山城は、切り立つこと百十余メートル、中腹には急造されたと思われる本丸、東の峰、天主岩などの砦跡(とりであと)や、また東の峰づたいに今なお空堀が残り、山城の様子がしのばれる。
額田町文化財保護委員会
宮嵜神社の東側の道を進み、奥の明見集会所から登城することができます。
明見集会所の前に登城口があります。集会所の横には奥平貞勝の墓が建てられています。
明見集会所の横に建てられています。戦国時代に奥平家当主であった奥平貞勝の墓です。
明見集会所の横に建てられている奥平貞勝の墓の案内板です。
防獣扉を開けて、左に進み、右尾根に登り、赤テープを目印に登っていきます。
木々に付けられた赤テープを目印に登り続けます。
登城路の途中には岩場も見られます。
南の曲輪まで登りきると、滝山城址碑が出迎えてくれます。
南の曲輪からの眺望です。眼下には武田軍が押し寄せた万足平(まんぞくだいら)が見わたせます。
アンテナの残がいが残されています。奥から北の曲輪へ進んでいきます。
L字状に平坦になっています。
北の曲輪の東側、小さな白い杭の奥から降りて向かいます。
東の曲輪の北側に空堀が残っています。空堀の付近には空堀跡の石碑が設置されています。
東の曲輪に残っている空堀です。
東の曲輪に残る空堀の下から撮影しました。奥に見えるのが東の曲輪で、空堀が連続して配置されています。
城址の麓に、別名である亀穴城の石碑が設置されています。この石碑の裏からも登れるそうですが、道なき道で変態向けです。
城址の麓にある亀穴城址碑の近くに設置されています。
城址の麓の万足平(まんぞくだいら)には、江戸時代後期に築かれた猪垣が残っています。
城址の麓の万足平(まんぞくだいら)には、江戸時代後期に築かれた猪垣が残っています。中間地点には、大きな石碑が建てられています。
城址の麓の万足平(まんぞくだいら)には、江戸時代後期に築かれた猪垣が残っています。
天正元年、滝山城の奥平氏は武田氏に攻められ合戦となりました。その際の戦死者を弔ったとされる石が、城址の麓の万足平(まんぞくだいら)に置かれています。
天正元年、滝山城の奥平氏は武田氏に攻められ合戦となりました。その際の戦死者を弔ったとされる石が、城址の麓の万足平(まんぞくだいら)に置かれています。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する