機種名 | Canon Canon EOS Kiss X50 |
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ISO | 100 |
F値 | 3.5 |
ホワイトバランス | オート |
シャッタースピード | |
レンズ焦点距離 | 24.0 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/50 |
画像方向 | 水平(標準) |
戦国大名、上杉謙信の祖
長屋氏の居館跡保元・平治の乱後、平清盛政権時代となり伊豆に流されていた頼朝が平家打倒の兵を石橋山で挙げたのは治承四年(一一八〇)八月のことだった。
このとき平家側の総大将は大場景親で、先人は弟俣野五郎景尚と家臣、当長尾台の長尾兄弟。源氏は岡崎義実の嫡男真田与一、陶山文三主従だったが、与一の討死で破れた頼朝等は山中を逃げまどい五日後、岩浜から房総へ船で敗走したことは戦記に大書されている。
渡海後の頼朝は房総の豪族を御家人として反撃に転じた。鎌倉入りには当初、頼朝に敵対した武相の豪族等が御家人として加わり、長尾兄弟も亦同様だったが俣野氏は障害を平家に尽くした。
頼朝は平家を亡ぼし鎌倉幕府を樹立したが頼朝死後は北条氏の時代となった。しかし元弘三年(一三三三)北条氏も新田義貞によって滅ぼされ、南北朝騒乱で勝者となった足利氏は京の室町幕府の出先機関として鎌倉府を設けた。
長尾氏は是に仕え次第に強大となり、戦国時代に長尾景虎はついに上杉謙信と称し、関東管領から戦国大名として北は出羽、南は上野、西は加賀に至る広大な領土を有した大名として知られた。
この長尾台は戦国史を飾る名将上杉謙信の先祖、長尾氏の発祥の地である。
平成十一年五月吉日建立
大正地区歴史散歩の会
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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