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まえだけ

加賀梅鉢(剣梅鉢) 前田家

前田家の概要

大名種別
いわゆる親藩・譜代・外様の分類
外様
大名の格
幕府が定めた大名家の格付け
国主
石高
歴代当主が与えられた最高石高
102万5千石
控えの間
江戸城に登城した際に待機する部屋(詰所)
大廊下
官位(武家官位)
歴代当主が与えられた最高官位
正二位
爵位
1884年(明治17年)の華族令制定時に与えられた爵位
侯爵

前田家の歴史

出自は菅原道真の子孫を公称したものの証拠はなく、諸説あってはっきりしない。
尾張国の荒子城主として織田家に仕え、前田利家の代に織田信長の側近として活躍、能登一国を与えられるまでに飛躍した。本能寺の変で信長が死んだあとは、以前から親密な関係にあった羽柴(豊臣)秀吉の臣下に入り、豊臣政権の重鎮として加賀・能登・越中の3ヶ国を支配し、大きな役割を果たした。

秀吉の死から間もなく利家も亡くなると、その跡を継いだ嫡男・利長は早速危機に見舞われた。政権奪取のために好機を狙っていた徳川家康に目をつけられ、「謀反を起こすために城を直し、武器を集めているため、討伐する」と宣言されたのである。これに対して、利長は徹底的な恭順姿勢をとって生き残りを図った。
家老を派遣して家康に対して恭順を示し、さらに母・芳春院(大河ドラマ『利家とまつ』の主役である利家の正室・まつ)を人質として江戸へ送ったのである。のちに江戸幕府の治世においては諸大名の家族が江戸屋敷に置かれ、実質的な人質となったが、これはそのはしりといえる出来事であった。

利長の策はこれにとどまらず、「家康の子を養子としてもらい、20万石と金沢城をその子に譲る」案まであったという。実際には芳春院を人質として送った利長の対応に家康が満足したのでこの計画は実現しなかったが、五大老の一角として本来は家康に劣らぬ存在であるはずの前田家が徹底して家康との戦いを避けたというところに、当時の家康がどれほど恐れられていたのか、が透けて見える。
こうした策が功を奏して、前田家は加賀・能登・越中の129万2千7百石を領することになった。

利長の奔走にもかかわらず、前田家の苦難は終わらなかった。引き続き幕府に目をつけられ続けていたからだ。
利長が没すると、弟の利常が家督を継承して3代目となる。2代将軍・徳川秀忠が病の床についた頃、この利常に謀反の疑いがかかった。
金沢城の垣根の修理、船舶の購入、大坂の陣で戦功をあげた者の子孫を取り立てたことから、「軍備の増強をしているのではないか」と幕府に目をつけられたのだ。そこで利常はすぐさま自ら江戸へ向かったが新将軍・家光に会うことはできず、家老が老中に繰り返し弁明することでどうにか疑いを晴らすことができた。

時は諸大名家が些細なことから次々と取り潰されていた江戸時代初期であり、前政権と深い関わりのある前田家はいつ取り潰されてもおかしくなかった。そこで、前田家は将軍家との婚姻・養子政策に奔走することで親密な関係を取り持とうと努力している。
利常の正室は秀忠の娘・珠姫で、嫡男の光高には徳川家光の養女・大姫(水戸徳川家出身)を迎え、また自身の娘を家光の養女とした。こうした努力と血のつながりが実を結んでか、前田家は江戸時代を通じて「一番大名」として御三家と並ぶ特別扱いを受け、厚遇を受け続けた。

それでもなお幕府の目が怖かったのか、利常は常に鼻毛を伸ばして阿果を装い、幕府の油断を誘ったという。その一方で、息子の光高が城内に家康を祀る東照宮を建てると、「幕府の天下がひっくり返るようなことが起きたらどうするのだ、そういうものは城外の遠いところに祀っておくほうがよい」といった意味のことを語ったともいい、実際には視野の広い人物であったことがわかる。

利常は隠居に際して、次男の利次に越中国富山10万石を、三男の利治に加賀国大聖寺7万石を分け与え、これがそれぞれ富山藩・前田家と大聖寺藩・前田家として幕末まで続いた。
特に富山藩は病弱だったという2代・正甫の頃より薬学・医学の研究と奨励に熱心で、いわゆる「富山の薬売り」が全国を回って薬を売り、これが特産品となって苦しい藩の財政を大いに助けた。
これとは別に、利家の子で長く江戸幕府の人質となっていた利孝が大坂の陣の戦功を評価されて約1万石を与えられて上野国七日市藩前田家となり、幕末まで続いている。

前田家の歴史を最後まで追いかけてみよう。
5代・綱紀は学者肌の大名としても知られ、書物の収集や編纂、学者の招へいなどを熱心に行った。また親戚にあたる徳川光圀(いわゆる水戸黄門)の教えを受け、同じく学問好きで知られた5代将軍・綱吉にまねかれてたびたび江戸城で講義を行ったという。
これによって「加賀は天下の書府」とまでいわれたが、もしかしたらその背景には武力とは別の方向への熱心さを見せることで、謀反の疑いを未然に防ごうという生き残り戦術があったのかもしれない。
一方で綱紀は文化事業を推し進める中で「ぜいたく大名」とも呼ばれ、藩財政を悪化させた。

時代が進む中でこの財政難は加速し、6代・吉徳は寵愛して取り立てた家臣・大槻朝元に倹約政策を推し進めさせた。
しかしこの改革は小規模な合理化にとどまって大きな成果をあげることはできず、むしろ成り上がり者に対する強い反感を持った重臣層との対立を招いた。
この反大槻派の不満は吉徳の死後に爆発、彼を遠島の刑に処するとともに、彼と密通していたとされる吉徳側室・真如院が幽閉された。その後、朝元は自害し、真如院も亡くなっている(本人希望で首を絞めて殺された、とも)。これを「加賀騒動」というが、藩政改革を巡る革新派と守旧派(下士層と上士層)の対立から起きた典型的な御家騒動といえる。

幕末の動乱において、藩論は完全に佐幕派であったが、13代・斉泰の嫡男・慶寧は長州志士の影響を強く受け、周辺に尊王攘夷論者を集めるとともに、長州と幕府の間を取り持とうと画策した。しかしこれは上手くいかず、また禁間の変で長州が京を追われたあと、斉泰は慶寧を謹慎させ、尊王攘夷論者たちを皆殺しにして幕府への姿勢を示した。
その後、謹慎を許されて家督を継承した慶寧は、鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府側に援軍を送ったものの(背景には将軍・慶喜との個人的親交があったという)、到着前に合戦の大勢が決まっていたため、すぐさま兵を戻して新政府への恭順を示した。その後は戊辰戦争に参加、東北諸藩との戦いで戦功をあげている。

前田家が藩主をつとめた藩の履歴

江戸幕府が樹立された1603年(慶長8年)から、廃藩置県が断行された1871年(明治4年)までの期間において、前田家の当主が藩主をつとめた履歴です。

加賀藩(金沢藩)

1601年(慶長6年)〜1871年(明治4年)

前田家の家紋

  • 加賀梅鉢(剣梅鉢)

    加賀梅鉢(剣梅鉢)

このページに記載してある内容の大半は 榎本事務所に寄稿していただきました。ありがとうございます!
   

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